「お客さん、ラストオーダーですよ」
あたしは肩を叩かれて、起きた。
マスターが後ろを通っていったみたい。
カウンターで突っ伏して寝てたのだ。
いつものこっちゃけど。

隣に、見知らぬ男性が座ってウィスキーのグラスを傾けていた。
「あ、こりゃどうも」
何が「どうも」なのかわからんけど、口癖で言うあたし。
「じゃ、マスター、おんなじのおかわり」
あたしは、氷だけのグラスを突き出した。
カウンターの奥から、ナッチと呼んでいる自称「バーテンダー」の男の子がバーボンのロックを持ってきた。
「どぞ・・」
「おっき、あんがと(おおきに、ありがとう)」

「ウィスキーがお好きなんですか?」
隣の男がおもむろにあたしに訊いてきた。
「は?あたし?訊いてんの?」
「ええ」
ニューエラのワーカーズキャップを目深にかぶった男は、ひげ面で表情がよくわからん。
「ま、ね。ほかのお酒じゃ酔わないのよ」
「ワインとかは?」
「ああいうのは、ジュースみたいでね、もうあんまり飲まない。口当たりがいいだの、水みたいだの、癖がないだの、そんなこというやつほど酒が飲めねぇ」
ヒックとっしゃっくりを呑み込みながらあたしはくだをまいた。
「おもしろいね。姐さん」
「おもしろいかぁ?なぁにが」
ばかにしてやがるな、こいつ。
「じゃ、マッコリなんか、ぜんぜんだめですね」
「マッコリぃ?韓国のどぶろくけぇ。あんな品のないもん飲めるかぁ」
思いっきり品のない、口調であたしが言うのも説得力がないね。
「だいたいよぅ。マッコリじゃなくって、マッコロリだぞう。発音はちゃんとしろぅ。コノヤロ」
あたしも、何を言ってんだか、自分でもわかんない。

「そうですか。マッコロリですか。コロリと逝きそうですね」
「コレラじゃないけど、食中毒起こしそうな酒だわな。お兄さん。なんせよぅ、アルマイトのヤカンに入れて持ってきやがるんだぜ。欠けた湯呑でそれを回し飲みすんだよぅ。下品だろー?」
「ぷはは!確かにそうだ」

「ほう、バーボンですか」
「うん、メーカーズマークだぁ」
ぐびっとグラスを呷(あお)るあたし。
「あんたは、なんだそれ?」
「山崎です」
「お、おみそれしました」ペコリと頭を下げるあたし。
「山崎」とか「白州」にはかなわないや。
あんな高い酒、口が腫れるわ。

「で、あんた、どこのシト?どっかで会ったっけ?」
どうも、見知らぬ人なんだけど。思い出せない。
「いいえ。今日が初めてです。あなたが、あまりにユニークな女性だから」
「ゆ、ゆにいく?湯には行かん。お風呂は家で入る」
「面白い人だ。まったく」
「面白い顔だと?聞き捨てならんな。あんた顔見せろよ。帽子でわからんぞ」
「こりゃ失礼」
さっと、キャップを取ったら、髪が薄いんだ。はげっていうほどじゃないけど。
目はちっさくて、ひげが濃い。
まあ、取り立てて言うほどの男じゃなかった。
「この辺のシト?」
「いえ、東京から出張で来てまして、明日帰ります」
どうりで、キザなイントネーションだと思った。
「お仕事?東京から?そりゃどうも。お近づきにカンパイ」
あたしはグラスを掲げた。
相手も、応じてくれた。

「ここは、もうすぐ看板ですから、どっかで飲みなおしましょうか?」
ときた。
あたしも、嫌いじゃないから
「そうね」
と、重い腰をあげた。
壮年の男はそれだけで、酒場の雰囲気をかもしだしている。
あたしは、そういうのに弱い。
あたしの分はあたしがが払うって言うのに、男が勘定を持ってくれた。
「わるいわね。初対面なのに・・・」
「いいんですよ。ぼくが誘っているんですから」
あたし、誘われてんだ。
のこのこついていって・・・
(今晩は、半身まひの旦那は施設でお泊りなんだ。だから飲んでんだけど)

肩幅が広くって、身長もあたしの頭一つ分くらい高い。
これぞ、男って感じがした。
コロンの香りも年相応で嫌みがない。
あたしはコートの襟を立てて、男について行った。
「お名前、うかがっていませんでした。ぼくはカワキタと言います。三本川に東西南北の北」
「あたしは後藤です」
旧姓の横山でもよかったんだけど、まあいいや。
「ゴトーさんか。ゴトーなんて言うの?」
「なおこ」
ぶっきらぼうに答えた。
「なおこさんって呼んでいいですか?」
「なおぼんって呼ばれてます。友達からは」
「なおぼん?こりゃ、かわいらしい」
「ですかね」
あたしはどう答えていいか困った。五十も越えたおばはんであるし。

信号待ちで、川北氏は
「旦那さんいないんですか?こんな時間に一人で飲んで」
「い、いますよ。家に」
「仲悪いの?」
「いや、べつに」
ふうんといった感じで、それ以上は訊いてこなかった。
伏見桃山駅の近所の居酒屋に入った。
ここなら午前三時くらいまで営業している。

バーボンが寒空で揮発してしまい、あたしの酔いは完全に醒めてしまった。
向かい合って席に着いた。店内はそこそこ混んでいた。
「焼酎はどうです?」
「え、あ、はい。いいですね」
「なおぼんは、蒸留酒のほうがお好きなんでしょ?」
「そりゃあ、もう」
「森伊蔵をやりましょう」
芋焼酎は苦手なのだけれど、森伊蔵は特別だ。

「川北さんは、ご家族は?」
あたしも少し立ち入ってやった。でないと話題がないし。
「女房と娘がひとり」
「じゃあ、こんなところであたしなんかをナンパして、いいんですか?」
「わかりゃしません」
不敵な笑みを浮かべて、川北氏は言う。
うまくいってないんだなと思った。

「へぇ、女だてらに機械の組み立てをねぇ」
さも感心だというように、川北氏が言う。
「昔は、化学会社で研究をやってたんですよ。これでも」
「こりゃ、おどろきだ。実はぼくも化学を専攻してましてね・・・」
彼は京都大学の宇治キャンパスに出張してきた工学博士だというのだ。
近く学会が京都で開催されるので、同じ研究をしている先生方とオーラル(口頭発表)の打ち合わせに来ていたそうだ。
「でも、もう化学は、あたし、あきらめました」
ぽつりとこぼして。グラスを傾けた。
「まあ、今のお仕事が合っているんだったら、いいんじゃないですか」
と、氏もフォローしてくれる。
「どんな発表をされるんです」
「なおぼんなら理解できるでしょうね。タンパク質の結晶構造の解析です」
「ああ、結晶化が難しいんでしょ?タンパク質は」
「さすが。よくご存知で」
「ラウエカメラですか?エックス線の回折像を見るんですね」
「説明はいらないみたいだね。なおぼんには」
はははと笑って、川北博士は薄い頭を掻いた。

もう終電は出てしまった。
タクシーを駅前で捕まえるしか宇治に帰る方法がない。
川北氏はどこのホテルに宿をとっているのだろう?
「先生は、どこにお泊り?」
「先生はやめてください。ぼくは、じつは、宿をとってないんですよ」
「はぁ?」
意味が分からなかった。
「宿無しなんです。よかったら、一緒に伏見区のホテル街に行きませんか?」
おいおい・・・
あたしは、面くらいかけたが、酒が入っているので、それもよいかとブレーキが甘くなっていた。
「いいよ。先生」
そしてタクシーに手を挙げた。
京聯タクシーが都合よく近くに来たのだ。
そして、あたしたちは、ラブホテルの林立する名神京都南インター付近にタクシーを向かわせた。

あ~あ、やっちゃった。
あたしって、だめな女。