風雨が激しくなってきた。
低気圧が通過中なのだろう。
木々の枝がごうごうと鳴り、庭の草花がざわめきはじめる。
離れの土蔵は母屋と廊下でつながっていて、その土蔵には鍵がかけられている。
大きな南京錠だった。

あたしは、この江尻家に住込み女中として雇われていた。
もう二ヶ月になる。
この家のほとんどの部屋は知っていたが、土蔵だけは何が入っているのか知らなかった。
当初、そんなには気にならなかった。
土蔵というものは、このあたりでは普通にあるものだったし、「物置き」以上のものでもなかったからだ。
江尻家は、この黒須村での豪農で、主人は村会議員である江尻八三郎(はちさぶろう)だった。
八三郎は白いひげを仙人のようにたくわえた好々爺であった。
家人は、八三郎老人と奥方の八重子夫人、娘の加代子、その夫の富士夫・・・そしてここにはいない一人息子の日出男だった。
日出男がどうして家にいないのか、不思議ではあったが、なんでも絵を勉強するだとかで東京に出たままだという。
加代子夫婦には子供がなかった。

このあいだ、あたしは、村の公会堂の掃除を手伝っているときに、日出男さんの風評を耳にした。
「仏蘭西に行っていた日出男さんが帰ってきたらしい」と。
どうも海外に留学していらっしゃったようだ。

「この雨、ひどくなるのかしら」
あたしは、窓ガラスを叩く雨粒を見ながら、暗い廊下にたたずんでいた。
土蔵のほうからうめき声のような音が風に混じってあたしの耳に届いたように思った。
「何?今の声」
獣(けもの)にしては、人間の叫び声のようなはっきりしたもののようだった。
なにやら助けを求めるような、悲痛な感じがした。
今度は確かに「助けてくれ」と男の声で聞こえた。
「誰?知らない声だわ」
あたしは、恐くなって雨に煙る前栽の奥の土蔵に視線を注いだ。
今日は奥様も旦那様とご一緒に出かけられていない。
加代子様ご夫婦は、買い物に出られてまだお帰りにならない。
「土蔵にだれかが閉じ込められているんだ」
あたしは、とっさに思い至った。
だとしたら、助け出さねばならない。
あたしは、走って廊下を抜け、土蔵の渡り廊下にさしかかった。
雨は、廊下をずぶ濡れにし、足袋を履いたあたしの足を滑らせる。
「助けてぇ」
はっきり、男の声が土蔵の中からした。
そこであたしは南京錠の鍵を持っていないことに気づいた。
「どうしましたぁ!」
あたしは、とにかく中に呼びかけた。
「足がぁ、足がぁ」
中からそう答えが返ってきた。
「待っててください。すぐ開けますから」
あたしは取って返して、台所の鍵がぶらさがった木版から太い鍵を取った。
木綿糸が通してあって、消えかけた「土蔵」と読める木札が結わえてある。
どたどたどた・・・
「今あけますからね!」
がちゃっ・・・開いた。
錆が浮いた重い南京錠の胴をゆっくり持ち上げ、カンヌキを抜いて、框に置いた。
そして、分厚い土蔵の引き戸をガラリと引いた。
金網が施された窓付きの内戸で二重になっていて、そこから覗くと、若い男が倒れているのが見えた。
「あなたは・・・」
「おれは、日出男だ」
驚いたことにフランスにいたはずの長男がそこでうめいているのだ。
あたしは、内戸を難儀して開けて、男のそばに寄った。
「あたしは、ここの女中をしております、横山尚子と申す者です。あなたは日出男さんなのですね」
「いかにも」
「どうしてここに。絵の勉強をしに東京へ出られて、フランスにまでお行きになったと伺っておりましたのに」
「話せば長くなる。とにかく、この足が・・・」
足が不自由なようだった。
この足では、東京はおろか、家の外にも出られまい。
落ち着いてみれば、車椅子があった。
生活感があった。
もうここでの暮らしが長いことも窺えた。
日出男さんは、車椅子からなんかの拍子に落ちてしまい、動けなくなっていたらしい。
「さ、お手を」
「すまない」
なんとか、重い日出男さんを起こして、あたしは車椅子に座らせることができた。
よく見ると、加代子様によく似ていらっしゃる。
年のころは聞いていたように三十前ぐらいだろうか。
無精ひげが濃く、強い汗の匂いが鼻を突く。
部屋が彼の匂いで満たされている。
嫌な感じはしなかった。
それよりも不憫だった。
目が澄んでいたから、なおさらそう思えた。

「絵を描いてらしたんですね」
部屋には、描きかけのカンバスがイーゼルにかけてある。
「あたし・・・だ」
そのカンバスには庭で花の手入れをするあたしの姿が描かれていた。
「君のことをずっと、この小窓から見ていて描いたのだ」
ぽつりと、はにかむように日出男さんが言った。
「ありがとう。さあ、もう、お行き。姉たちに見つかるとやっかいだから」
「でも・・・」
「ここで、おれに会ったことは言わないほうがいい」
「お食事とかは?」
「姉が持ってきてくれているんだ。気づかなかったかい?隠してるんだ。かたわ者の弟のことを」
「そんな・・・」
「さ、早く」
あたしは、追われるようにそこを出た。
鍵も閉めて。

鍵を元通りに返して、とぼとぼと北向きの女中部屋に戻った。
「なんという悲しいことだろう」
あたしは、非情な彼への仕打ちがいたたまれなかった。
北の窓には雨に霞んで安達太良山が見えている。

「智恵子は東京には空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ
私は驚いて空を見る・・・」

高村光太郎の「あどけない話」の冒頭が浮かんだ。

その日から、あたしは江尻家の家人の目を盗んでは日出男さんに会いに行った。
そして、あたしの絵の進捗を見るのが楽しみでしょうがなかった。