あまりの恐怖で食事が喉を通らなかった。
もう何時間も船に揺られ、言葉の分からない男たちに監視されながら、私たちは怯えていた。
福井の海岸から、私たちは連れ去られた・・・


この国で暮らして、とうとうあたしは五十歳を迎えた。
あの日のことを、思い出すことも少なくなった。
私は、本当に日本人だったのだろうか。
本当の親よりも長く、今も、この国の「先生」(教育係)にお世話になっている。
その先生に従って、この国で、結婚し、子どもも産み育て、将軍様に敬意を払って生きてきた。

「よこやまなおこ」それがあたしの本名だった。
漢字で書けと言われると、もはや危うかった。
十代でここに連れて来られて、「招待所」での共同生活、そして勧められて、同じ日本人の「ごとうさちお」と結婚した。
生まれた子は、みなこの国の名をつけることを強要され、この国の国籍が与えられた。

最近、日本のことを聞くことが多くなった。
日本は、なんでもアジアの大国になって、この国を敵視して、攻撃を企てて再軍備しているとか。
南部のある招待所にいた数家族かが十年ほどまえに日本に帰ったということも聞いた。
あたしも家族が待っている日本に帰りたくもあったが、そういうことを言うと激しく監督員から叱責されるので、懲戒も受けたくないので、黙っていた。
夫は、かなり前から病院通いで、あまり長くないと医師からも言われている。
息子たちは、ピョンヤンの大学に進んで、コンピューターの研究をして報奨も頂いていた。
日帝(彼らは日本のことをそう言う)へ撃ちこむミサイルの誘導をコンピューターで計算するのだそうだ。
将軍様のお役に立てることは、母親として、鼻が高い。

ラジオやテレビを見ることは自由なのだけれど、あたしがなかなかこの国の言葉を覚えられないものだから、面白くもなんともない。
それでも日本語はほとんど話さなくなった。
夫も入院がちだからだ。
どっちの言葉もだめになりつつあった。
二十代のころは、日本人を拉致するために日本に送り込まれる「土台人(トデイン)」などの工作員への日本語や日本の文化を教えるなどの仕事をさせられた。
そんな日本人が当時はたくさんいたと記憶している。
しかし、次第に仕事もなくなり、農作業や書類の整理などの仕事に従事するようになった。
私は、つまるところ、日本人として子どもを産んでそれだけでこの国に貢献したということか。

近所の日本人家族はこのところ減ってきている。
死んだ人もいるが、どこか遠い療養所に入って生活しているとも聞く。
もう、若くないので、あちこち悪くなっているのだった。

日本に帰りたいかと訊かれたら、いまさら帰りたくないと答えるだろう。
日本から来た人たちで、私のように未成年で連れて来られた人ほど、そう言うに違いない。
どっぷりとこの国の教育をほどこされているからだ。
一度役所の人が来て「帰りたいか」と尋ねられたことがあった。
私は、一瞬戸惑ったが、否定した。
息子たちを置いていかねばならないからだった。
彼らは国家機密に属する仕事をしており、家族ぐるみで帰日はならないということだったから。
それに、先に日本に帰った人々は散々な目に遭わされているとも聞かされた。

父母の顔を忘れたことはないが、あの国は、暮らしにくいらしい。
ここにいれば、死ぬまで面倒を見てもらえるが、向こうではそうではないらしい。
老人が増え、子どもが生まれず、人口が大変減っているそうだ。
なんでも、税金が高く、国民は搾り取られて、苦しんでいるそうだ。

アメリカに騙されて、国中を基地だらけにされているとか。
それは、みな、私たちの国を攻撃するためだそうだ。
そんな国を祖国とは思いたくないし、帰るなんてもってのほかだ。

将軍様はお父様を亡くされ、今は未熟でも、末はこの朝鮮の国を背負っていかれる。

つくづく、この国に連れて来られて良かったと思っている。

ずっと私はこの国の名で暮らしています。
「キム・ミョンヘ」と言います。
「偉大なる首領様」(故キム・イルスン主席)につけていただいたんですもの。


あたし、学生時代、もうちょっとで拉致られるとこだった。
もしそうなっていたらと、妄想してみました。