イングランドの空は曇天が似合う。
暖流と寒流がぶつかり合って、ドッガーバンクの周辺で生まれた霧がドーバーを覆う。
ヒュー・ダウジング空軍大将閣下の命を受け、ドイツ軍にプロパガンダのビラを撒く任務を与えられた第116空挺部隊に、あたしは所属していた。
あたしは、ナオボン・エレナ・ウィルコックス。
変な名前でしょ。
生まれた時お祖母ちゃんがケルトの妖精の「ナオボン」みたいだって・・・あとで調べたら「おまんこ」のことだったって笑えない話。

それはさておき、この春、イギリス空軍中尉になったばかりなのよ。
みんなから「Nao(ナオ)」とか「Nao-bon(なおぼん)」って呼ばれてる。
今の人は意味わかんないから、いいんだけどね。
一応、グラスゴーの郊外の城持ち貴族の出なんだけどね、父の道楽で飛行機が身近にあったもんだから、あたしも空軍を目指してこのありさま。
ミッションスクールでは乗馬クラブに所属していたけど、やっぱり飛行機への夢は捨てきれなかった。
ダウジング閣下と父は古くからの友人で、よくポーカーを自宅でする仲だったから、あたしがこの部隊に配属されたのも父のおかげって言うわけ。

イギリスの防空は「ダウジングシステム」という長波を使った電波監視と監視員の目視で成果を上げていたわ。
ドイツのメッサーシュミットBf-109Eは足が短く、スピットファイアの敵ではなかった。
かといって、Bf-110は航続距離こそ長くなったけれど、所詮、双発の鈍重な戦闘機で、恐れるに足らない。
しかし、しつこく、ハインケルHe111が爆弾を落としていくので放っては置けないの。
He-111編隊
今日も朝から、来た来た・・・サイレンがけたたましくなっている。
聞き慣れたHe-111の爆音が南の空から響いてきた。

あたしたち空挺部隊はいわゆる「落下傘部隊」なのだけど、飛行機から爆弾以外のものを落とすという役割もあった。
そのひとつが、「ビラまき」である。

女王陛下の国である以上、女の兵士も多く任務に就いている我が国は、女がバトル・オブ・ブリテンをよく戦っていたわ。

今日もこれから任務に就くの。
ワイト島の飛行場から、あたしたちはアムーストロング・ホイットワース「ホイットレイ」双発爆撃機でビラを撒くのだ。
王室のリゾート地として名高いワイト島は、マルコーニが通信実験を行ったところとしても知られる、ドーバー海峡の要衝なのよ。
本土とは狭いソレント海峡を挟んで対峙しているわ。

「なおぼん、ビラは積んだか?」
機長のグラハム大尉がガムを噛みながら訊く。
この人は、この任務を嫌々やっているのが見え見えだった。
もともと、爆撃隊の隊員だったのに、下半身がだらしなくって、中隊長の奥さんと不祥事を起こし、ここに転属となったのだ。
あたしも、何度か誘われ、上官だし、断れずベッドを共にしたけれど、とんでもない絶倫でこっちが腰を抜かされたわ。
最近は、若いティナ・クリーブランド少尉と昵懇(じっこん)なようで、あたしは誘われなくなっちゃった。
ティナとあたしは飲み友達で、グラハム大尉のことをサカナによくこき下ろしていた。
彼女はあたしと違って、淫乱で、腹筋が割れているくらいの体自慢だから、少々の絶倫男でも相手ができるらしいのよ。
夏季休暇の前だったか、酔ってそんなことを話してたっけ。

「こりゃ傑作だ、『ドイツのインポ野郎のみなさまへ』だとさ」
グラハム大尉がビラを手に頓狂な声を上げて笑いころげている。
「サックを一緒にばらまいてやればいい」
なんて言っている。

「戦時下でゴム製品が貴重なんですよ大尉」
あたしは、混ぜっ返した。
「だな。ドイツ野郎にくれてやるサックはねぇな」
「サックがもったいないので、ドイツ兵は生でやりたがるから、アムステルダムの慰安婦は嫌がってるって」
とティナも負けていない。
かくいう、あたしたちも大尉の慰安婦みたいなもんだった。
「さ、行くぜ」大尉が座席について、操縦桿を握った。
ゆるゆるとロールスロイスマーリンエンジンが回り出し、独特の甲高い澄んだ音を奏でる。
ホイットレイ
あたしたちのホイットレイが離陸した。
この無骨で角ばった飛行機は、古い割にはよく働く。
主戦力にはならないけれど、夜間の爆撃や、運送、標的曳航、なんでもござれだ。
中は狭く、自動の回転銃座が前後に付いているのがご愛嬌だった。

眼下に鉛色のドーバーの海が広がっている。
もうすぐ冬が到来するのだ。
あたしたちも防寒服を着込んで、ころころだった。
機内は息が白い。
ホイットレイはよく揺れ、きしんだ。
ラジオからは、BBCのニュースが流れている。
ケンジントン公園付近に爆弾が落ちたが不発だったとか・・・

カレー付近からヨーロッパ大陸に進入し、西へ向かってブルゴーニュとかナントのドイツ軍にビラを撒くのだ。
当然、メッサーの迎撃を受けるだろう。
レーダーですでに我々は把握されているはずだ。
三機のフェアリー「フルマー」艦上戦闘機が護衛に合流する手はずだった。
空母アーク・ロイヤルがフランス沖に展開していたからだ。
アーク・ロイヤル機から入電・・・
「あと十五分ほどでランデブーだそうだ」
大尉がヘッドフォンを首にかけて言った。
「へぇ、ずいぶんヒマがかかってんのね、どうせあたしたちの護衛なんかやる気ないんじゃない?」
あたしは、揺れる機体の中で屈みながら後ろの銃座の方に歩いて行った。
そこかしこに、工具だの、銃弾の箱や、手榴弾の箱が置いてあって始末が悪いったらありゃしない。
足元が危うくって、薄暗いから余計に時間がかかる。
「ありゃ?敵さん、おでましのようだぜ」
「え?困るよ、まだ海上じゃないの」
とティナが声を荒らげる。
風防越しに見ると、フォッケウルフFw-190のようだった。
「二機いるわ」
「銃座につけ、なおぼん」
「アイアイサー」
仕方がない、お迎えするしかない。
ロッテという二機編隊だった。
ルフトバッフェ(ドイツ空軍)の常套手段だ。
フォッケは上下に展開し、あたしらをサンドイッチにして食べるつもりなんだ。
「ティナ、下のフォッケを頼む」
「あたしは上のをしとめるわ」
「大尉、頼むわよ!」
「まかしとき!」
大きく機体が左に振られ、フォッケの追撃を交わそうと舵が切られた。
機内の物がガシャンと走って、暴れる。
グワワワ~ン・・・マーリンがうなる。
ダダダダ・・・
フォッケの機銃が火を吹いた。下のやつだ。
ガンガンガン
「わぁ!」
胴体に風穴が開いてしまった。
跳躍する弾が足元に来た。
「危ない!」
あたしも7.7mm機銃で応戦した。
下手な鉄砲で、マガジンがすぐ空になる。
硝煙の臭いが鼻を突いた。
「次っ」
ガシャッと、マガジンをハメて、また狙いをつける。
「おっと・・・」
機体が大きく下降した。海面まで五百メートルってとこ。
尾翼に弾丸が当たって、大きく欠けたのが見えた。
「やりやがったな」
大尉も、必死だ。
向こうも下手くそだった。
たぶん、新兵なんだろう、フォッケが大回りしてやがる。
ロッテなんだから、一機が囮(おとり)になって陽動すればいいものを・・・
急に反転したフォッケが火を吹いた。
あたしのが当たったのか?
違った。
援軍だ。
空母「アーク・ロイヤル」のフェアリー「フルマー」が助けに来てくれたのだ。
フルマー
複座の新鋭艦上戦闘機だ。
あたしは手を振って合図をした。
向こうも手を振ってくれる。

もう一機のフォッケは逃げていった。
風穴を開けられたあたしたちのホイットレイと三機のフルマーは、一旦任務を中止しワイト島に帰投することになった。
右のマーリンエンジンが被弾したらしい。

ワイト島が視野に入ったときにフルマーは別れていった。
「ありがとう!」
ティナとあたしは声を限りに礼を言った。
「聞こえやしないよ」と大尉が意地悪を言う。
ほんとは嬉しいくせに。
生きた心地しなかったもんね。
「よし、地上に降りたらビールで乾杯だ」
「大尉のおごりね」
「ベッドでな」
「やだよ。すけべ野郎」

大尉の乱暴なランディングで、無事あたしたちは、地上の人となった。