俺は、この街に何度か訪れたことがあるが、ここで夜を迎えるのは初めてだった。
「もうこんな時間か」
出張の帰りだったが、先方さんが話し好きで、なかなか帰してくれず、こんな時間になってしまった。
最寄りの新幹線の駅までは在来線で五つほど西に行かねばならなかった。
腕時計は午後八時五十分を指している。

公衆電話のボックスに入り、事務所に電話をかけた。
俺は大阪の司法書士事務所に勤務する補助者だった。
補助者というのは司法書士先生の手足となって、各地の法務局などに出向いて登記簿を調べたり、依頼人の人定資料を集めたりすることを主な任務とする。
特に資格はいらない。
もっとも補助者というのは、いずれ司法書士を目指して先生のカバン持ちをしながら、勉強をさせてもらうのが目的なのだけれど、万年浪人の俺は、未だにうだつが上がらない三十歳だった。

「あ、先生。斎藤です」
「どうした。遅いやないか」
「すんません。西浦さんが、なかなか放してくれませんで」
「で、いまどこや?」
「長島です」
「もう、そっちで泊まってきたらどうや?」
「そんな」
「カネないんか?」
「ありますけど」
「あとで請求してくれたらええから」
「あ、ありがとうございます」
所長の瀧川仙吉先生は鷹揚で、けちなところがない。
だから、出来の悪い俺の尻も叩かない。
何から何まで放任なのだ。
同僚の梶谷海男はガリガリ勉強して、俺を小馬鹿にするが、先生は俺に勉強しろとかそういうことを言わない。
梶谷は二年もすれば試験に通るんじゃないかと思われた。
そうすれば、彼は独立してしまうだろう。

電話ボックスを出て夜の街に俺は溶けこむように紛れた。
この街の一部は「赤線」と昔は呼ばれていたそうだ。
一筋入れば、昭和の古い町並みに変わる。
赤い提灯に惹かれて、俺はこぢんまりした佇まいの食堂に入った。
L字型のカウンター席と二つのテーブル席があって、五人の先客がグラスや猪口をかたむけている。
「いらっしゃい」
女将(おかみ)らしい女の張り切った声が俺に向けられた。
カウンター席の端に腰を下ろしながら、
「とりあえずビール」
「生中?ビン?」
「ビンで」
「おかずは、ここからお好きなのをどうぞ」
冷蔵ガラス戸棚に煮付けやサラダなどが並んでいる。
ばら寿司まであった。
めし屋なのだ。よくある。
うどんを食ってる客もいたから、注文すれば麺類もつくってもらえそうだ。
壁を見ればラーメンやうどん、そばのお品書きがくすんでいる。
俺は、ガラス棚から冷奴と烏賊(いか)と小芋の煮付け、そしてばら寿司を取って席に戻った。
栓の抜かれた中瓶とビール会社のロゴの入ったグラスがすでに置かれていた。
店主はナイター中継を小さく、しかしはっきり聞こえるくらいの微妙なボリューム調節でラジオを鳴らしていた。
客の声はざわめきとなって、二三の単語を拾うことはできても、何を話しているのかはわからない。
ときおり起こる彼らの笑い声で俺は思索から呼び戻された。
仕事のこと、一人暮らしを始めたこと、今日の宿のこと・・・うたかたのように現れては消えるこもごもを泡の消えたビールのグラスを口に運びつつ巡らせた。
ビール瓶が二本目になり、いささか酩酊していた。
時間も十時前である。
あらかた料理も食べ終え、まわりを見回すと、もう俺しか店内にはいなかった。
ラジオも消えてしまっている。
「はいお茶」
女将が気を利かして湯のみにほうじ茶を淹れてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「兄さん、このへんの人やないね」
「ええ、大阪から出張で…」
「今日は泊まり?」
「まあ、そういうことになりますかね。この辺でビジネスホテルとかありますか?」
「そやねぇ、そういうモダンなもんはないけんど、旅館みたいなものならあるよ」
「ちょいと、紹介してもらえないかな。決めてないんですよ。泊まるとこ」
「そうなの?ちょっと待ってね」
女将は、奥に引っ込んだ。
しばらくして、
「ここ、あたしの友達がやってんの。御兄さんは若いから知らないだろうけど、赤線だったころから旅館やっててね…」
老眼鏡をずらしながら、電話帳を繰って見せてくれた。
「鳴海(なるみ)さん…ですか」
「そう、なるみってのが屋号。そこに電話したげるわ」
「お願いします」
珍しい黒電話の受話器を取って女将はしばらく、柱に凭(もた)れて、
「あ、ひでちゃん?かどやです」
そうか、ここは「かどや」という店だったんだ。
あの赤い提灯にはひらがなで「かどや」と書かれていたらしい。
もうはげちょろけていたのだ。
のれんもまくれ上がって、読めなかった。
「うん、お一人様。空いてる?あ、そう。よかった。じゃあお願いしますね」

「御兄さん、空いてるって。地図書いてあげるから、あたしの紹介だって言ったらサービスしてくれるよきっと」
相好を崩して、かどやの女将は、俺にメモ用紙を渡してくれた。
なんの、ここから五十メートルもない場所だった。

俺はお勘定を済ませて、店を出、教えられた通りに宿に向かった。
程よい、酔い心地で足取りも軽かった。

普通の家より庭が立派という以外は、何の変哲もない旅館だった。
「旅館鳴海」という看板が上がっていなかったら、素通りしてしまうだろう。
「ごめんください」
盛り塩のある靴脱に立ち、俺は呼ばわった。
奥から、衣擦れの音をさせながら楚々と、落ち着いた和服の女が出てきた。
「いらっしゃいませ」
深々とお辞儀がされ、俺もつられた。
「ささ、こちらにどうぞ」
俺は靴を脱ぐと、かばんを女に渡して、後に続いた。
うす暗い廊下は、どこまで続くのだろう。
こんなに奥深い建物だったのだろうか?
俺は訝しんだ。
間接照明がところどころにあって、真っ暗にはなっていない。
「こちらにお部屋をご用意させていただきました」
『藍』と書かれた板が貼ってある。
ここの部屋の名前らしい。
「お風呂はこの突き当りになります。露天もございますのでごゆっくりとどうぞ。素泊まりとお聞きしてますが、もしお夜食をお召し上がりになられる場合はフロント9番にお電話くださいまし。お茶漬けやおむすびぐらいならご用意させていただきますので」
女は、そう事務的に言ってしまうと、キーを置いて部屋を出て行ってしまった。
宿帳への記帳もしなくていいのだろうか?
俺は、スーツの上着を脱いで、ハンガーにかけていると、
「ごめんくださいまし」
さっきの女がノックする。
「どうぞ」
俺は、招じ入れた。
「すみません。お客様、お宿帳を」
「だろうね。不思議に思ってたんだ」
「慣れないもんで」
「最近、この仕事に?」
俺は帳面に名前を書きながら訊いた。
「中居が辞めてしまって、あたしが一人で切り盛りすることになって・・・あ、あたし、申し遅れましたが、旅館鳴海の女将でございます」
「え?女将さんなの?これはこれは・・・」
「母とあたしでやってましたが、その母も昨年、亡くなりまして、もう旅館もたたもうかと思っている次第です」
「そうなんですか。お客さんも来ないですか」
「まあ観光地でもないですしね」
「そうか・・・」
書き終えて、帳面を女将に渡した。
「失礼致します。本日はお客様お一人ですのでどうぞ、ごゆっくりおくつろぎくださいね」
にっこり笑った女将は俺とそんなに歳が違わないように見えた。

風呂は、なかなかこんな町中の旅館にしては立派だった。
一人で入るにはもったいない。
自慢の露天風呂も堪能させてもらった。
湯船は小さいが、俺だけのためにお湯がいっぱいに張られ、高い塀と高木に囲まれて夜空が切り取られていた。
近くの高圧線の赤い灯だけが場違いに見えていた。

ふと脱衣場に人影が見えた。
他に客はいないと聞いていたが、だれだろうか?
しばらくして驚いた。
女将がまっ白な裸体をさらして、洗い場に入ってきたではないか。
しゃがみ、かけ湯をして、後れ毛を気にしながら。
俺が入っていることを知らずに?
俺は混乱していたが、しっかりその裸体に見入っていた。
豊かな乳房が揺れ、太っていないが、しっかり肉のついた臀部、淡い影のような陰毛。
俺は露天風呂から出るに出られない状況だった。
「どうしたものか・・・」

俺は、三流の私立大学の法学部を出て、女とも付き合うこともなくこれまできた。
そういう男を回りは「童貞」だと蔑んだように見ていることも承知している。
兄弟もいない俺は、とにかく色恋沙汰とは縁がなかった。
いかがわしい写真本でさえ、手に取ることもなかった。
身をやつして女の気を引くすべも知らず、欲求は「休火山」のごとく体の奥深くにいこってはいたが、ついぞ噴出すこともなかった。
そんな不毛な考察にふけっているうちに、女将は大胆にもこちらを向いて体を洗い始めたではないか。
「気づいていないのだろうか?」

自分の体に異変が起こりつつあることが自覚された。
下半身に力がみなぎり、普段は見せない隆々とした立ち上がりをみせている。
「ああ」
俺は小さく呻いた。
自慰すらしたことのない俺であったが、今はこの分身をなだめてやらねば収まりがつかない気持ちでいっぱいだった。
ここでざばりと湯船から立ち上がることは、いけないことだろうか?
なに、向こうも知らないで入ってきたのだ。
よし…
おそらく粗末な一物が女将の冷笑を買うだろうことは目に見えている。
だが、このままゆでダコのごとくのぼせて、ぶっ倒れる失態よりは、立ち上がることがマシなように思えた。

すると、女将が泡を流して立ち上がり、外の露天、つまりこちらに歩いてくるではないか。
「お客さん、どうです?うちのお風呂は」
「え?あ・・はい。け、けっこうなお風呂ですね」
「ご一緒していいかしら?」
「ど、ど、どーぞ」
俺はどぎまぎして、隅に寄った。
目の前に夢にまで見た裸体が逆光になってそこに立っていた。
つま先が伸びて、湯の面をつつく。
そのたおやかな素足は、天女のものに相違なかった。
「熱くない?」
「いえいえ、ちょうどいいです」
「そ」
ちゃぷん・・・
男が湯に浸かっていようが、おかまいなしの風情で、恥じている俺のほうが馬鹿げているように思えてきた。
「ほんと、いい湯加減」
女将はうなじを俺に向けながら、肩甲骨までを湯に浸けた。
桜色になった柔肌が、水滴を浮かべて淡い白熱灯の光に反射している。
肌理(きめ)が細かいなんていうものではなく、白磁のように均一な表面を見せていた。
「何を見ていらしゃるの?」
「え、いや、きれいだなって。肌が…」
「ま、うれし・・」
そう言うと、俺の方に向き直って、真横に体を泳がせてきた。
「あ、あの、おれ・・もう、出ますわ」
「いいじゃないの。それとものぼせちゃった?」
「すこし・・」
「うふ。お客さん、かわいいわ。弟みたい」
「は、はぁ」
俺の頭は沸騰しかけたヤカンのようになっていた。
女将の吐息がもう、頬にかかっている。
そして、俺の勃起がにゅっとやわらかな手のひらで握られてしまった。
「あくっ」
「あらあら、こんなに硬くして」
「や、やめてください」
「どうして?気持よくない?」
「気持ちいいですけど、だめです」
「真面目なのね、斎藤さん」
俺の名を彼女は言った。宿帳を見ていたのだから知っていて不思議はなかった。

やわやわともみしだかれ、俺の童貞はもう限界だった。
女将の胸肉を腕に感じ、その柔らかさと、亀頭に感じる彼女の指の腹の摩擦が相まって、このままでは湯船の中でぶちまけてしまいそうだった。
「あの、その、やばいです」
「出ちゃう?いいわよぉ。出して」
「でも、ここじゃ、あ、あかん」
どうしようもなかった、俺の腰は砕け、そのまま湯の中に滑って沈みそうになった。
尿道から絶えず何かが放たれている感じがした。
「あ~あ、出しちゃった」
おどけたように女将が言い、まだ絞られていた。
そのくすぐったさで、俺は腰をよじった。
「立って」
「はい」
俺はおもらしをした子供のように湯から立ち上がり、外に出た。
情けなくしぼんだ分身が陰毛に隠れてぶら下がっているのを手で隠し、俺は、そそくさと露天風呂を後にした。
最初の体験がこれでは・・・
俺はいたたまれず、悲しくなった。

女将は手桶で湯船に浮き沈みしているであろう精液をかい出しているようだった。