研究室はエアコンが止まっていて、代わりに窓が全開になっていた。
蝉しぐれがワンワン響いている。

「それは、あなたパラドックスですよ」
宇佐美昭雄はさも面白いという表情であたしに言った。
彼は今年、講師になったばかりのポスドクだった。

「シュレーディンガーの猫ってご存知ですか?横山さん」
「ええ、名前くらいは」
「こういった量子力学の啓もう書なんかに必ず出てくる思考実験ですよ」
彼の手にはブルーバックスの一冊があった。
今となっては、その本の名前すら覚えていないけれど…

『シュレーディンガーの猫』とは、物理学者のシュレーディンガーが提示したクイズである。
しかしその答えは、「神はサイコロを振らない」とマックス・ボルンに書簡を送ったアインシュタインを始め、確率で物理現象を議論することに嫌悪する学者への痛烈な打撃となった。
とはいえ、こういった思考実験への解答こそが量子力学を前進させたと言ってもいいくらいだ。
最近ではホーキング博士の、超弦理論に対するブラックホール中心の熱放射のパラドックスが有名である。

シュレーディンガー博士はネコを一匹、箱のような檻に入れた図を描いた。
その箱には仕掛けがあって、青酸ガス発生装置と、その装置を「ON」にするガイガーカウンターが取り付けられている。
ガイガーカウンターはα線を感知して、青酸ガス発生装置を動かし、ネコのいる檻に青酸ガスを吹き込む。
当然、ネコは死ぬわけだ。

α線源はラジウムという放射性元素としよう。

そこでシュレーディンガー博士は、
「ラジウムがα線を放射するのは、わたしの導いた方程式によれば、わかりやすくするために50%の確率だとすると、ネコが死んでいるかいないかも50%の確率で、生きている状態と死んでいる状態が重なった状態だ」
と言うのである。
確かに、放射能は確率で示される。
ミクロな世界である量子力学では、不確定性の原理からそうなるのだけれど。
ほら電子の位置と運動量が同時に観測できないというあれよ。
ハイゼンベルクが到達した考え方ですね。

ところが、マクロな結果である「ネコの生死」は確率ではないはずだ。
なのに、ミクロな議論がマクロな結果を記述することになる。
シュレーディンガー博士が言う「ネコの生と死は重なり合った」状態とは?

ネコの死という「観測結果」は確率を表しているのだろうか?
もう死んでしまっているネコを前に、「五割の確率で死んでる」とはおかしな話であろう?
しかし、α線を出した(だからネコが死んだ)という現象はシュレーディンガーの方程式によれば確率表記しか許されない。
この場合の「ネコの死」は「死という状態への収束」と理解されるのではないだろうか?

「ネコは限りなく死に近づいた状態で生きていたとかということではないですか?」
あたしは苦し紛れに答えた。
「数学で言う極限の考え方だね。時間を細かく切って、観測者が観測するということであって、このパラドックスの答えにはなっていないよ」
「そう…ですか…」
「あくまでも死と生の重ね合わせで猫は「存在」していなくてはならない」
「はあ…」
あたしは困惑していた。
宇佐美さんは、しかし、あまり満足気ではなかった。
「実際、わたしにもわからんのですよ」
独り言のようにつぶやいて、自分のデスクに向き直った。

「じゃあ失礼します」
「ああ、おつかれ」
あたしは研究室の名札を裏返し、部屋を出た。
あしたは、大阪大学に出張しなければならず、新幹線の切符を帰りに買っていかなければならなかった。

昭和六十一年の盛夏だった。