一郎の部屋には「家庭の医学」という分厚い本があった。
彼ら夫婦にとって、唯一の「性」の手引きだった。
一郎が実家から持ってきたものに相違なかった。
思春期を迎えた彼が、むさぼるように性の知識を吸収した本だったからだ。
むろん、彼の両親もそうやってつましい性の営みを終えて、一郎という一粒種を得たのだろうから。

その本にはセックスのおおざっぱな仕方、主な体位などが後ろの方のページに収録され、絵解きされていた。
そしてその行為の結果、妊娠、出産と話が展開し、また生殖のためだけでなく夫婦の円満な関係を保つために、ささやかな楽しみ方として、キス、フェラチオ、クンニリングスについて触れられていた。
また、オナニーは決して不健康な行為ではなく、むしろ健康な証拠である旨のことが書いてあり、悩み多き一郎少年にとって、勇気を与える言葉だった。

その本は、今は春子が密かに愛読している。
春子は、ごく普通の女の子として育ち、友人にも恵まれ、浮いた話も起きなかった。
父親がクラシック好きで、それに影響されてピアノが好きになり、小中高とピアノ三昧だった。
ピアノを生かせる仕事として幼稚園の先生を選択したのは至極当たり前のことだった。
そんな青春時代を送った春子が一郎によって、遅い性の目覚めを経験したのである。
「あれって、なんて気持ちがいいんだろう?」
そう自分に問いかける春子だった。
好きな人の体温や体臭を感じながら、身をゆだねる心地よさ。
体の内側から湧き出る泉…
愛する人が硬くして入ってくる、震えがくるような快感…
挙げればきりがないくらい、セックスのとりこになってしまっていた。
どうして今まで、こんな「いいこと」を知らないで過ごしてきたのだろうと、悔やみもする春子だった。

「家庭の医学」にはさまざまな体位が絵で示され、魅力的な騎乗位や後背位などを春子は食い入るように見た。
どうせなら深く感じたい。
しかし正常位の見つめ合うセックスも捨てがたかった。
「屈曲位なら、向かい合っていても深いんだわ…」
研究熱心な春子だった。
「いっけない、遅刻しちゃう」
幼稚園に出勤する前にこういうものを見ていては生活に支障をきたすとわかっていても、春子はつい見入ってしまうのだった。

団地の四階に住まいのある春子は、階段の途中で同い年くらいの奥さんたちに挨拶しながら降りていく。
島田さん、堀川さん、安藤さん…
みんな三十にはなっていない若い奥さんたちだ。
「あのひとたちも夜は乱れるのかしら?」
夜に耳を澄ますと、かすかに女の喘ぐ声や、むせび泣くような声が聞こえることがある。
それが安藤さんなのか、堀川さんなのか、島田さんなのかはわからなかった。
「あたしの声も聞こえているかもしれないわ」
往来を歩きながら、頬を染める春子だった。
「まあ堀川さんや安藤さんは子育てに忙しいから、夜はご無沙汰なんでしょうよ」
すると、子供のいない島田淳子さんの声かもしれないと、春子は推理する。

「みずほ幼稚園」に滑り込んだ春子は、園児バスがエンジンをかけて発車しようとしているところにそのまま走った。
「浅野先生、またぎりぎりですな」
笑って運転手の倉本が白い手袋をはめながら言う。
「ちょっと起きるのが遅くって」
「新婚さんは大変だ」
意味深な笑みを浮かべて倉本が運転席につく。
「じゃあ、行きますかい」
バスは走り出した。
「旦那さんはやさしいですかい?」
五十がらみの脂ぎった倉本がいやらしい目つきでルームミラーで後ろの席の春子に話しかける。
「え?まぁ」
生返事をして、目は車窓の景色を眺めていた。
「毎日、旦那さんにかわいがってもらってるかい?」
「はぁ?」
春子は怪訝な顔で、倉本を見た。
何を言っているのだ?この人は…
倉本は奥さんを早くに亡くし、やもめ暮らしだと聞いていた。
倉本からそう言ってきたのだ。
春子も、子供がいるのかどうかまでは知らなかった。
「旦那さんは若いから、あんたを欲しがるだろ?」
まだ子供たちが乗っていないのをいいことに、倉本の問いかけがしつこかった。
「いやらしいわね。倉本さん。欲求不満なの?」
いささか腹が立って春子がきつく言った。
「まぁね、やもめにゃ、あんたがた新婚さんがうらやましいよ」
「だれかお相手、探されたらどうですか?まだお若いんだし」
「言ってくれるね。いるもんか。こんなおっさんになびく女なんて」
吐き捨てるように倉本が言う。
最初の子供らを乗せる拠点に着いたので、この話は終わりになった。