ピョンヤン(平壌)の春は遅い。
大阪にいたころは、こんなに寒い経験をしたことがなかった。
テドンガン(大同江)の緩やかな流れを見ながら、宿舎から大学への道を歩いていた。
午前中は朝鮮語を習得するために派遣先の金日成総合大学工学部から、向かいの平壌外国語大学に行かねばならなかった。

今年、1988年はお隣のソウルでオリンピックが開催される。
就任直後の盧泰愚(ノ・テウ)大統領の最初の慶事である。
ピョンヤンでもそのことは話題にはなっているものの、やはり一種の屈折した感情が報道にも見られた。
金日成国家主席は、昨年の金賢姫の証言で、北朝鮮が「大韓航空機爆破事件」の首謀者とされたことを、内国でひた隠しにしていた。あたしは「外国人」であるからそのことはよく知っていたが、この国で口外することをきつく禁じられていた。

日本で伝わっている以上に、この国の恐怖政治の実態はすさまじかった。
あたしは笑わなくなった。
日本に残してきた両親を心配することよりも、自分の身の上の危うさのほうが懸念される。
この国への招聘に応じるあたしを手引きした金明恵(キム・ミョンヘ)は、朝鮮労働党の工作員で、その後、一切、あたしとの面会を断たれた。
あたしは、同じ境遇の日本人数人と共同生活をさせられている。
希望すれば日本に帰してもらえるとは聞いているが、あたしの与えられたテーマ「神経ガス前駆体合成」が完成しない限りそれはならないだろう。
あたしはとんでもない一歩を踏み出したと言わねばならない。
この国には密かに日本から拉致された人々がいると聞く。
しかし、そう言ったことを人に問うと、一様に難しい顔をされ、「あなたは知らない方がいいし、そういうことを大っぴらに訊くものではない」と諭された。
同じ宿舎で生活している日本人は、佐藤元(はじめ)、新発田(しばた)正憲、小暮秀子とあたしだった。
佐藤さんはクラレの研究出身の三十五歳、新発田さんはシャープの開発にいたという四十がらみの人で工学博士だそうだ。小暮さんはあたしと同い年の大阪大学の院生だった女性だ。
同じ宿舎に住んでいるとはいえ、交流する時間はあまりない。
みんな別々の大学に派遣されているからだ。
みんな共通して未婚だった。
だからこそ、この国でやっていけるのかもしれない。
「なんなら、お相手をお世話しますよ」と、招聘担当の朴俊希(パクジュンヒ)女史は笑顔で言ったものだった。

朝鮮民主主義人民共和国は偉大な金日成国家主席の指導のもと、共に発展し、平和裏に世界を人類安寧に導くのである。
あたしは強く共感した。
「それを妨げる日帝やアメリカ帝国主義に打ち勝ち、ものの見事に我々の脅威を知らしめるのだ。寝食を惜しんで邁進するわが国の正義にいつかひれ伏す時がくる」
彼らは、声高にそう言い、彼らなりの根拠を持っていた。
そして、あたしたちのような外国人の協力が必要なのだと。

生活は保障されていた。
俸給は朝鮮ウォンで支払われた。
デノミの必要性が政府で俎上に上がるも、なかなか混乱を懸念して実施されなかった。
近い将来、大きなデノミネーションが行われるのではないかと噂されている。
貨幣価値が著しく低下しているのだった。
庶民の暮らし向きは、ピョンヤンでは見えにくいが、少し郊外に出ると、凄まじいくらいに貧困が目立つ。
裸の鉄線を電柱に這わして送電している様を見れば、あたしに、この国がいたるところでほころびを生じているのではないかと思わせた。

ちかごろ、国家主席は体調を崩すことが多くなった。
いきおい後継者の問題になるが、そのことは軽々に口にできないような雰囲気だった。

あたしは、外大の門前に着き、身分証を守衛に見せた。もう顔を覚えられているので、ほぼ顔パスだった。
実は、ピョンヤンには日本人がけっこう多いのだ。
学生やもっと年配の人、もしかしたら在日朝鮮人だった人かもしれないが日本語が使える。
自称ジャーナリストという人もいた。
しかし、この人は怪しかった。
陳西日(チン・シャリー)と言う若い男で中国系の人だった。
日本のイトマンという商社に嘱託でいたという。
あたしが農薬の開発をしているんだというと、近づいて来たのだった。
日本語はネイティブスピーキングであり、まったく中国人と言うことを感じさせない。
陳は、何度か、あたしを飲み食いに連れて行ってくれた。
この国の「よしなしごと」の知識はほとんど、陳からの受け売りだった。

あたしは、第一講義棟の基本朝鮮語講座の部屋に向かった。