夫の祥雄は意識を取り戻したが、あたしのことがよく認識できないらしかった。
主治医は「一時的なものです。そのうち奥様の顔がわかるようになります」と言うのだが…
ICUから一般病棟に空きができ次第、移動するとのことだった。

病院にいても仕方がないので、マーシャルと一緒に、大阪市生野区の朝鮮総連大阪支部の金達吉を訪ねることにした。
ヤツを締め上げねば、何もわかりはしないし、何も進まないとマーシャルが言うのだ。
病院まで車で迎えに来て、準備が整ったから「行きまっせ」と一方的にマーシャルがあたしを車に押し込んだ。
車の中で金明恵を質(しち)に取ったとマーシャルが打ち明けた。
だから、今なのだ…
道中の車の中で「ゆさぶり」の段取りを打ち合わせた。

総連の建物の近所の「モータープール」に車を預けると、「牙城」はすぐそこだった。
駐車場に見慣れた黒いワンボックスが停まっていた。
「やっぱしな」
あたしたちは、重いドアを押し開けて暗い総連の建物の中に入っていった。

事務員の女は、金達吉同志に面会なら「産業振興部」に行けという。
このビルの三階にあるらしい。
エレベータを使って産業振興部に向かった。
「どう思う?」
「何がです?」
「ダルキルよ。産業振興部長だってさ」
「ああ、肩書だけでしょ。拉致振興部やないんですかい?」
「笑えない冗談ね」
「すんません」

三階に着き、エレベータが開いた。
暗色の木目調の壁が細い廊下の両サイドを埋めている。
突き当りに30センチ四方のガラスの嵌ったドアがあり、そのガラスにはカーテンが掛けられて中は見えない。
小さなプレートにハングルと漢字が書いてあり「産業振興部」とあった。
マーシャルがノックする。
「どうぞ」
男の声が中から聞こえた。
あたしたちはドアを押し開け、中に入った。
「失礼します」
書庫が並び、古ぼけたカウンターで隔てられた一部屋だった。
窓側のデスクに男が座っている。
「あんたがたが、ミョンヘの知り合いかな」
「後藤です、こちらはボディガードの柏木です」
「ほほう。えらい厳重なお客さんやな。柏木さんには前に、お会いしましたな」
その六十前の男は慇懃(いんぎん)に言った。
「わたし、キム・ミョンヘの父でここの部長をやっとりますキム・ダルキルと言います」
といって名刺を差し出したので、あたしが受け取って、勧められるまま応接ソファに腰かける。
「後藤さんのことは、娘からよう伺っとります。ご結婚される前は横山さんとか」
「その通りです」
「で、本日のご用向きは?」
「あたし、先日、殺されかけましてね」
「ほう。そりゃまた一体」
「黒いワンボックスですわ。下の駐車場に停まってる」
「まあ、あんな車、どこにでもありますけどね」
「ナンバーは控えておりますんで、あの車に間違いありません。あたしの車に幅寄せして、危うく事故りそうになりましたんや」
「それで、わたしにどうしろと?」
「あんたの差し金でっしゃろ?あたしを襲わせたのは」
「変な言いがかりはやめてもらいたいな。どこにそんな証拠がありまんね」
ギラリとダルキルぼ眼鏡越しの目が光った。
「おっさん、とぼけてたらしょうちせぇへんで。おらぁ!」
「マーシャル、自重せぇ」
あたしは止めた。
「あたしも事を荒立てとうないんです。わけを知りたいだけでね」
「なんのわけでんね。さっぱりわかりまへんな」
「そうですか。ミョンヘさんは、今、どこに?」
「あいつなら、京都にいるはず…」
「電話してみてください」
「なんで…そんな」
「無事かどうかですやん。心配ないんですか?娘さんのこと」
あたしは不敵な笑みを浮かべて睨み返した。
琴平会の若いもんがキム・ミョンヘを拉致ったのを、あたしは知っているのだ。
蒲生が手配して、彼女を監禁した。
手荒な真似はしたくないが、あの血気盛んな若い衆は輪姦(まわ)すかもしれない。
元より、あたしの知ったことではなかった。
おそるおそる、デスクの電話をプッシュするダルキル。
彼女はケータイかピッチを所持しているはずだった。
「もしもし、アッパや、お前今…なんやて?そんな…」
「どうしました?娘さん。無事でしたか?」
あたしが、わざとらしくにこやかに尋ねた。
「おまえら…卑怯なまねを。条件は何や?言うてみ」
「高安浩二をどうしたか、教えてもらおか?娘がどないなってもええんかい!」
マーシャルがすごむ。
急に、怖気ずくキム・ダルキル。
足が震えている。
「どうしたんや、われ!つんぼか?返事せぇ」
「あ、ああ、言われへん。許してくれ、言うたら殺されるんや」
「あほぬかせ。ここまで来て、ガキの使いやあるまいし、ただで帰れるかい」
次々にマーシャルが畳み込む。
「娘の旦那がピョンヤンにいる。そいつが知ってる。それだけで勘弁してくれ」
そう言って泣き崩れてしまった。
他愛もない無様な姿のダルキルから、マーシャルが紙片を受け取り、
「おんどれの、娘婿(むすめむこ)のコ・アンホの居場所はここでええねんな。ヘタな真似したら娘の命はないで。ええな」
と釘を刺した。
「へぇ…」
しゃがれた声でダルキルが応えた。

あたしたちは、勢いよく総連のビルを出た。