チェから渡されたのは自動拳銃「グロック17」とやはり9mmパラベラム弾の装填された一ダースのマガジン(弾倉)だった。
戦争でもおっぱじめるのだろうか?
これで身を守れということらしい。
マーシャルもそれを手にしている。
「姐さん、こらやっかいなことになるかもしれまへんで」
拳銃をしまいながら、彼が困ったような顔をしている。
「労働党新聞のビルで撃ち合いになるのかな?」
「万が一ですわ」
明日ですべてを終わらせたい。
あさってには日本に戻って普通の生活に戻りたいのだ。
夫の体も心配だった。
まだ昏睡から目覚めていないのだろうか?
ここで死ぬわけにはいかない…
翌日の朝八時にはまたあの黒ベンツにあたしたちは乗せられていた。
朝食のおかしな麺類で胸やけがしてきたが、それだけではないようだ。
緊張とストレスからくる胃炎かもしれない。
昨日は夜でわからなかったが、そとは穀倉地帯というか、農地が広がっている。
チェによれば「ジャガイモ畑」だそうだ。
しかしその景色もすぐに高層ビルがまばらに建つピョンヤンの景色になってきた。
乾ききった建物が朝日に反射している。
昨日見た金日成の立像が見えてきた。
「ここで降りましょう」
チェが車を停めさせた。
街区の中の小路で、人気(ひとけ)がない。
ただ、労働党新聞社はこの先にある。
表通りを歩かずに、ビルの合間をぬって、新聞社の側面に出た。
非常階段だろうか、その下に小さなドアがあった。
チェを先頭に、あたしが続き、マーシャルがしんがりを務める。
ドアは鍵がかかっておらず、簡単にビル内に入れた。
薄暗い廊下は病院のような雰囲気だった。
壁にはハングルのスローガンらしきものが書いて貼ってある。
こういうものは街中でも普通に見られ、自分が北朝鮮にいることを再確認させられるのだった。
「ここから三階に上がれます」
上に行く階段にたどりついた。
まったくここも人気(ひとけ)がない。
だいたい、どこもあまり人がいないような感じがしている。
このビルも遠くで人の声がするが、何を言っているのかはわからない。
この古いビルには、監視カメラもなさそうだった。
それはチェも知っていて、こんなに大胆な入り方をしているのである。
三階には部屋が、廊下を挟んで通り側に十、裏側に十という配置のようだった。
エレベータもあり、その前に部屋の配置を書いた略図の板が貼ってある。
すべてハングルなので、何が書いてあるのかさっぱりわからない。
「一番道路側の奥が、コ・アンホ局長の部屋です」
チェが小さい声で言った。
あたしたちは、物おじせずにそこへ向かった。
チェがドアをノックする。
「들어가라(入れ)」
と男の声がした。
チェがドアを押し開けて入り、あたしたちも続いた。
「コ・アンホ局長にお会いしたい」とチェが日本語で言った。
「局長は不在だ。あなたがたは何者だ?」
日本語で答えた五十がらみの男は秘書のようだった。
「こちらは、弟さんを探している横山尚子さんだ」
チェはあたしの日本名をちゃんと言った。
「弟?局長があなたの弟の行方を知っているというのか?」
「コ・アンホ局長の夫人、キム・ミョンヘさんからそう聞きました」
あたしが、今度はしゃべった。
「夫人からだと?ちょっと失礼」
秘書は隣室に入ってしまった。
どうやらそこに局長がいて、一部始終を聞いているのではなかろうか?
「やるか?」
マーシャルがチェをうかがう。
チェがうなずいた。
マーシャルがドアに駆け寄り、蹴破(けやぶ)った。
そしてグロックを構える。
中では二人の男がホールドアップで立ちすくんでいた。
「ら、乱暴はよせ」
「あ!」
驚きの声を上げたのはあたしのほうだった。
両手を挙げているのは、あたしの探している弟「高安浩二」その人だったのだ。
「とうとう来たんやね。なおぼん」
彼が口を開いた。
「あんた、どういうことなん?マーシャル、ちょっと待って」
「姐さん、何がなんやら…」
マーシャルがポカンと口を開けてあたしを見るが、さすがに構えた銃はコ・アンホを狙ったままだ。
「この男が、コ・アンホ局長が、高安浩二や。なんちゅうこっちゃ」
あたしは、膝から崩れそうになるのをこらえた。
秘書がしょうもないマネをしないように、チェが結束バンドで両手を縛り上げる。
「아프다(痛いっ)」
秘書が苦痛に顔をしかめる。
浩二には、もはや幼さはなくなっていたが、目元や顔の輪郭はあの高校生の頃の面影を強く残していた。
「なおぼん、コ・アンホって漢字でどう書くと思う?」
浩二が低い声であたしに問うた。
チェも、マーシャルも拳銃を下ろして、あたしたちの会話をただ聞いていた。
「知らん」
「高安浩って書いて、コ・アンホって読むねん」
「浩ちゃん、朝鮮に自分を売ったんか?あんたはキム・ミョンヘに騙されてんねんで」
「ミョンヘはそんな女やない。でもこの国からはもう出られへんねん」
寂しそうな表情で浩二がつぶやいた。
「高英姫の弟っていうのも作り話やろ?」
「コ・ヨンヒ夫人がそうしろと言うたんや。でないと総書記に怪しまれるから」
「横田めぐみは生きてるんか?」
「ああ。でもここ何年か、会うてない」
「そうか。しかし、交野のおっちゃん、もうあんたのこと諦めた言うて、えらい老け込んでたで」
「ほんとの父親やない…」
「知ってたんか?」
「知ってたよ。お姉ちゃん」
浩二が初めてあたしを「姉ちゃん」と呼んでくれた。
「そうや、あんたはあたしの弟なんやで。それやのに…」
それやのに、愛し合ってしまった…
あたしが言よどんでいると、
「姉ちゃんは北鮮帰還事業って知ってるやろ?」
と、やや冷静を取り戻した浩二が話し出した。
「ああ、えらい昔のことや。日本にいる朝鮮人を人道的支援として北に帰すため、国を挙げての事業やった」
「おれの母親は北の人間で、日本でおれを産んで、すぐに帰還の万景峰号で帰っていったんや。なおぼんの親父さんが無理やり親子を引き離してな。おれは日本で生まれたから日本人やということでな。昭和三十七年の夏やったそうや」
きつい目で浩二に睨まれると、あたしも目をそらした。
あたしの父が不倫をして、しでかした結果なのだ。
「そんでおっちゃんとこに引き取られたんやね。あんたの本当のお母さんには会えたんか?」
「皆目わからん。大学生の時、「あたしは北の人間やからあんたと結婚して、いっしょに探したる」ってミョンヘが言うたんや。けどな、高安家も、もとは半島の人間なんやで」
「それは知ってる。お祖父ちゃんから聞いたけど、それは、織豊時代の話やないか」
「高氏と安氏という王族の血が合わさって高安になったのも、この国で知ったんや」
「わけわからんわ。あんたの言うてること。伝説やんかみんな」
「なおぼんも肖古王の末裔なんやで」
「そやから尚子という名前にしたってお祖父ちゃんから聞いてるけど、それとあんたの売国行為と何の関係があるのよ」
「おれは目覚めたんや。朝鮮で生きることでね」
「あほらしい。わかった。あたしがアホやった。危険を冒して、こんな辺鄙(へんぴ)なとこまでノコノコやってきて、あんたのバカ話を聞きに来たとはな」
「なおぼんもここで暮らしぃな。ええとこやで。それになおぼんは知りすぎてる。もう帰られへんで」
「どこが…自由もない、話はみんな政府に筒抜けで、女は、とことん男の慰みもので、こんな国が理想であるはずがないわ」
「なおぼん、言葉を慎め!将軍様のおひざ元やぞ!」
「くっ…マーシャル、帰るで」
「へぇ」
「待て!」
浩二が叫んだ。
「なんや、もう用はないで」
「このまま帰れると思うんか?甘いでなおぼん」
「帰さへんかったら、キム・ミョンヘの命はない」
「なに?」
「人質として取ってあるんや。それでもええんか?」
「大事の前の小事や。なおぼんを殺す」
抽斗から浩二が拳銃を素早く出したが、マーシャルの方が早かった。
浩二の腕から血しぶきが舞った。
純白の壁が赤く染まる。
うわぉう
銃声が外にも聞こえただろう。
このままではここで討ち死にするのかもしれなかった。
あたしは、浩二の額にグロックのマズルを当てた。
「あんたは生きてたらあかん。さよならや」
ドスっ
引き金を軽く引いたら、浩二はそのまま目を見開いて後ろに倒れた。
手のひらで瞼を閉じてやり、合掌した。
続いて、椅子に括りつけられている秘書の頭を撃ち抜いた。
キーンと薬莢が床を弾む。
秘書も血を吹いて床に崩れた。
「姐さん」
驚いたのはマーシャルの方だった。
チェもあたしの変貌に驚いているようだった。
あたしがこうも簡単に、非情に殺人を犯せるのかと、訝(いぶか)しんでいるのがありありとわかった。
「マーシャル、チェさん、ここは情けをかけたら生きて出られしません。生き延びようと思ったら敵は皆殺しにせなあかんのです」
「わかりました」
「ほなら、早よ、ここから出ましょ」
あたしたちは廊下に出た。
男たちが騒ぎを聞きつけて階段を駆け上がってくる。
あたしは容赦なく、彼らを撃ち殺した。
チェも夢中で引き金を引いている。
またたくまにマガジンが空になる、ベルトに差し込んであるマガジンを差し替え、飛び出してくる朝鮮人を撃ち殺していった。
「こいつらが、みんな日本人を、浩二を狂わせたんや。みん道連れや」
マーシャルも負けてはいない。
腰だめで、冷静に狙いを定め、出てくる警察官や、軍服の男たちを倒していく。
しかし、弾も限りがあった。
警察や軍隊が装甲車までも動員して、労働党新聞社を包囲しようと右往左往しているが、統制がまったく取れていないようだった。
おそらく彼らも、本当の戦闘に不慣れなのだ。
あたしは電話を掛けようとしている女の事務員の後頭部を吹き飛ばした。
そして監視員を二人お陀仏にし、通路を開ける。
撃つなと手を挙げているが、格好のターゲットになっている。
お構いなしに、命乞いをするやつの頭を飛ばしていく。
「ええい、邪魔じゃ、のけ、こら」
撃つのもめんどうだと言わんばかりに、蹴り倒すマーシャル。
それでもすがってくる男を至近で撃ち抜く。
「アイゴー!」
まるでスイカのように頭が割れる。
血しぶきが窓を、床を、抽象画のように汚していく。
フロアは阿鼻叫喚地獄となり、血の海で下手をすると足を取られる。
至近弾は貫通銃創を作り、肉をえぐった。
パラベラム弾の威力は素晴らしい。
自動小銃を構えた軍人が入ってきたが、来るなり顔面をマーシャルが吹き飛ばす。
やつらの自動小銃を奪い、あの乗ってきたベンツに走って逃げた。
チェがやられた。
腹から大量の血が噴き出している。
あたしは助からないと見定めてチェの頭を撃った。
「ごめんね。ありがとね。カムサハムニダ」
あたしとマーシャルがベンツの後部座席に滑り込むと、運転手が察して外へ逃げ出してしまった。
すぐにサイレンを鳴らした警察車両が追いかけてくる。
あたしは運転手の背中に二発、お見舞いし、あたしが運転席に乗り移り、急発進させた。
マーシャルは後部座席を銃座にして、追っ手をけん制する。
奪った武器を存分に使っている。
検問を突破し、警官をはね、マーシャルが自動小銃で後続のタイヤを撃って蹴散らした。
あたしはこの左ハンドルのベンツで平壌市内を縦横に走り抜けた。
交差点ではバスがよけきれずビルの一階に飛び込み、歩行者をなぎ倒している。
警察官が路上から撃ってくる。
このベンツは装甲がなされているのか、敵の銃弾が跳ね返っている。
防弾ガラスはひびだらけで、前が見えにくくなってきた。
とはいえ、このままだと、いずれつかまってしまうだろう。
もうずいぶん殺した。
殺しすぎた。
生きて祖国の地を踏むことは諦めねばならないだろう。
ヘリコプターまで追ってきている。
弾倉を取り替え、ひっかえ撃ちまくり、道連れを増やすことに専念する。
最後の一発は自分のために残しておこう…
マーシャルも同じ気持ちだろう。
「お父ちゃん、お母ちゃん、おっちゃん、もうすぐそっちへ行くからね。それから、祥雄さん、ごめんやで。最後まで勝手なことして」
あたしの全財産はたった一人の相続人である夫、祥雄に行くはずだ。
あの人には両親もいるし、年の離れた妹さんもいる。
誰かに面倒見てもらえるだろう。
ヘリから、対戦車砲が飛んできてベンツの至近でさく裂した。
バルカン砲の洗礼を受け、屋根と言い、ボンネットと言い、穴だらけにされて、ベンツは沈黙した。
振り返るとマーシャルの胴体がちぎれて、後部座席は血の海だった。
一瞬の沈黙…刹那の時がおとずれた。
あたしはこめかみにグロックのマズルを当てて引き金を引いたのだろう。
同時に目の前が真っ赤になり、ベンツが大爆発を起こしたがあたしは、強い光の方へ吸い込まれていった。
善人なおもて往生を遂ぐ…いわんや悪人をや
(おしまい)
戦争でもおっぱじめるのだろうか?
これで身を守れということらしい。
マーシャルもそれを手にしている。
「姐さん、こらやっかいなことになるかもしれまへんで」
拳銃をしまいながら、彼が困ったような顔をしている。
「労働党新聞のビルで撃ち合いになるのかな?」
「万が一ですわ」
明日ですべてを終わらせたい。
あさってには日本に戻って普通の生活に戻りたいのだ。
夫の体も心配だった。
まだ昏睡から目覚めていないのだろうか?
ここで死ぬわけにはいかない…
翌日の朝八時にはまたあの黒ベンツにあたしたちは乗せられていた。
朝食のおかしな麺類で胸やけがしてきたが、それだけではないようだ。
緊張とストレスからくる胃炎かもしれない。
昨日は夜でわからなかったが、そとは穀倉地帯というか、農地が広がっている。
チェによれば「ジャガイモ畑」だそうだ。
しかしその景色もすぐに高層ビルがまばらに建つピョンヤンの景色になってきた。
乾ききった建物が朝日に反射している。
昨日見た金日成の立像が見えてきた。
「ここで降りましょう」
チェが車を停めさせた。
街区の中の小路で、人気(ひとけ)がない。
ただ、労働党新聞社はこの先にある。
表通りを歩かずに、ビルの合間をぬって、新聞社の側面に出た。
非常階段だろうか、その下に小さなドアがあった。
チェを先頭に、あたしが続き、マーシャルがしんがりを務める。
ドアは鍵がかかっておらず、簡単にビル内に入れた。
薄暗い廊下は病院のような雰囲気だった。
壁にはハングルのスローガンらしきものが書いて貼ってある。
こういうものは街中でも普通に見られ、自分が北朝鮮にいることを再確認させられるのだった。
「ここから三階に上がれます」
上に行く階段にたどりついた。
まったくここも人気(ひとけ)がない。
だいたい、どこもあまり人がいないような感じがしている。
このビルも遠くで人の声がするが、何を言っているのかはわからない。
この古いビルには、監視カメラもなさそうだった。
それはチェも知っていて、こんなに大胆な入り方をしているのである。
三階には部屋が、廊下を挟んで通り側に十、裏側に十という配置のようだった。
エレベータもあり、その前に部屋の配置を書いた略図の板が貼ってある。
すべてハングルなので、何が書いてあるのかさっぱりわからない。
「一番道路側の奥が、コ・アンホ局長の部屋です」
チェが小さい声で言った。
あたしたちは、物おじせずにそこへ向かった。
チェがドアをノックする。
「들어가라(入れ)」
と男の声がした。
チェがドアを押し開けて入り、あたしたちも続いた。
「コ・アンホ局長にお会いしたい」とチェが日本語で言った。
「局長は不在だ。あなたがたは何者だ?」
日本語で答えた五十がらみの男は秘書のようだった。
「こちらは、弟さんを探している横山尚子さんだ」
チェはあたしの日本名をちゃんと言った。
「弟?局長があなたの弟の行方を知っているというのか?」
「コ・アンホ局長の夫人、キム・ミョンヘさんからそう聞きました」
あたしが、今度はしゃべった。
「夫人からだと?ちょっと失礼」
秘書は隣室に入ってしまった。
どうやらそこに局長がいて、一部始終を聞いているのではなかろうか?
「やるか?」
マーシャルがチェをうかがう。
チェがうなずいた。
マーシャルがドアに駆け寄り、蹴破(けやぶ)った。
そしてグロックを構える。
中では二人の男がホールドアップで立ちすくんでいた。
「ら、乱暴はよせ」
「あ!」
驚きの声を上げたのはあたしのほうだった。
両手を挙げているのは、あたしの探している弟「高安浩二」その人だったのだ。
「とうとう来たんやね。なおぼん」
彼が口を開いた。
「あんた、どういうことなん?マーシャル、ちょっと待って」
「姐さん、何がなんやら…」
マーシャルがポカンと口を開けてあたしを見るが、さすがに構えた銃はコ・アンホを狙ったままだ。
「この男が、コ・アンホ局長が、高安浩二や。なんちゅうこっちゃ」
あたしは、膝から崩れそうになるのをこらえた。
秘書がしょうもないマネをしないように、チェが結束バンドで両手を縛り上げる。
「아프다(痛いっ)」
秘書が苦痛に顔をしかめる。
浩二には、もはや幼さはなくなっていたが、目元や顔の輪郭はあの高校生の頃の面影を強く残していた。
「なおぼん、コ・アンホって漢字でどう書くと思う?」
浩二が低い声であたしに問うた。
チェも、マーシャルも拳銃を下ろして、あたしたちの会話をただ聞いていた。
「知らん」
「高安浩って書いて、コ・アンホって読むねん」
「浩ちゃん、朝鮮に自分を売ったんか?あんたはキム・ミョンヘに騙されてんねんで」
「ミョンヘはそんな女やない。でもこの国からはもう出られへんねん」
寂しそうな表情で浩二がつぶやいた。
「高英姫の弟っていうのも作り話やろ?」
「コ・ヨンヒ夫人がそうしろと言うたんや。でないと総書記に怪しまれるから」
「横田めぐみは生きてるんか?」
「ああ。でもここ何年か、会うてない」
「そうか。しかし、交野のおっちゃん、もうあんたのこと諦めた言うて、えらい老け込んでたで」
「ほんとの父親やない…」
「知ってたんか?」
「知ってたよ。お姉ちゃん」
浩二が初めてあたしを「姉ちゃん」と呼んでくれた。
「そうや、あんたはあたしの弟なんやで。それやのに…」
それやのに、愛し合ってしまった…
あたしが言よどんでいると、
「姉ちゃんは北鮮帰還事業って知ってるやろ?」
と、やや冷静を取り戻した浩二が話し出した。
「ああ、えらい昔のことや。日本にいる朝鮮人を人道的支援として北に帰すため、国を挙げての事業やった」
「おれの母親は北の人間で、日本でおれを産んで、すぐに帰還の万景峰号で帰っていったんや。なおぼんの親父さんが無理やり親子を引き離してな。おれは日本で生まれたから日本人やということでな。昭和三十七年の夏やったそうや」
きつい目で浩二に睨まれると、あたしも目をそらした。
あたしの父が不倫をして、しでかした結果なのだ。
「そんでおっちゃんとこに引き取られたんやね。あんたの本当のお母さんには会えたんか?」
「皆目わからん。大学生の時、「あたしは北の人間やからあんたと結婚して、いっしょに探したる」ってミョンヘが言うたんや。けどな、高安家も、もとは半島の人間なんやで」
「それは知ってる。お祖父ちゃんから聞いたけど、それは、織豊時代の話やないか」
「高氏と安氏という王族の血が合わさって高安になったのも、この国で知ったんや」
「わけわからんわ。あんたの言うてること。伝説やんかみんな」
「なおぼんも肖古王の末裔なんやで」
「そやから尚子という名前にしたってお祖父ちゃんから聞いてるけど、それとあんたの売国行為と何の関係があるのよ」
「おれは目覚めたんや。朝鮮で生きることでね」
「あほらしい。わかった。あたしがアホやった。危険を冒して、こんな辺鄙(へんぴ)なとこまでノコノコやってきて、あんたのバカ話を聞きに来たとはな」
「なおぼんもここで暮らしぃな。ええとこやで。それになおぼんは知りすぎてる。もう帰られへんで」
「どこが…自由もない、話はみんな政府に筒抜けで、女は、とことん男の慰みもので、こんな国が理想であるはずがないわ」
「なおぼん、言葉を慎め!将軍様のおひざ元やぞ!」
「くっ…マーシャル、帰るで」
「へぇ」
「待て!」
浩二が叫んだ。
「なんや、もう用はないで」
「このまま帰れると思うんか?甘いでなおぼん」
「帰さへんかったら、キム・ミョンヘの命はない」
「なに?」
「人質として取ってあるんや。それでもええんか?」
「大事の前の小事や。なおぼんを殺す」
抽斗から浩二が拳銃を素早く出したが、マーシャルの方が早かった。
浩二の腕から血しぶきが舞った。
純白の壁が赤く染まる。
うわぉう
銃声が外にも聞こえただろう。
このままではここで討ち死にするのかもしれなかった。
あたしは、浩二の額にグロックのマズルを当てた。
「あんたは生きてたらあかん。さよならや」
ドスっ
引き金を軽く引いたら、浩二はそのまま目を見開いて後ろに倒れた。
手のひらで瞼を閉じてやり、合掌した。
続いて、椅子に括りつけられている秘書の頭を撃ち抜いた。
キーンと薬莢が床を弾む。
秘書も血を吹いて床に崩れた。
「姐さん」
驚いたのはマーシャルの方だった。
チェもあたしの変貌に驚いているようだった。
あたしがこうも簡単に、非情に殺人を犯せるのかと、訝(いぶか)しんでいるのがありありとわかった。
「マーシャル、チェさん、ここは情けをかけたら生きて出られしません。生き延びようと思ったら敵は皆殺しにせなあかんのです」
「わかりました」
「ほなら、早よ、ここから出ましょ」
あたしたちは廊下に出た。
男たちが騒ぎを聞きつけて階段を駆け上がってくる。
あたしは容赦なく、彼らを撃ち殺した。
チェも夢中で引き金を引いている。
またたくまにマガジンが空になる、ベルトに差し込んであるマガジンを差し替え、飛び出してくる朝鮮人を撃ち殺していった。
「こいつらが、みんな日本人を、浩二を狂わせたんや。みん道連れや」
マーシャルも負けてはいない。
腰だめで、冷静に狙いを定め、出てくる警察官や、軍服の男たちを倒していく。
しかし、弾も限りがあった。
警察や軍隊が装甲車までも動員して、労働党新聞社を包囲しようと右往左往しているが、統制がまったく取れていないようだった。
おそらく彼らも、本当の戦闘に不慣れなのだ。
あたしは電話を掛けようとしている女の事務員の後頭部を吹き飛ばした。
そして監視員を二人お陀仏にし、通路を開ける。
撃つなと手を挙げているが、格好のターゲットになっている。
お構いなしに、命乞いをするやつの頭を飛ばしていく。
「ええい、邪魔じゃ、のけ、こら」
撃つのもめんどうだと言わんばかりに、蹴り倒すマーシャル。
それでもすがってくる男を至近で撃ち抜く。
「アイゴー!」
まるでスイカのように頭が割れる。
血しぶきが窓を、床を、抽象画のように汚していく。
フロアは阿鼻叫喚地獄となり、血の海で下手をすると足を取られる。
至近弾は貫通銃創を作り、肉をえぐった。
パラベラム弾の威力は素晴らしい。
自動小銃を構えた軍人が入ってきたが、来るなり顔面をマーシャルが吹き飛ばす。
やつらの自動小銃を奪い、あの乗ってきたベンツに走って逃げた。
チェがやられた。
腹から大量の血が噴き出している。
あたしは助からないと見定めてチェの頭を撃った。
「ごめんね。ありがとね。カムサハムニダ」
あたしとマーシャルがベンツの後部座席に滑り込むと、運転手が察して外へ逃げ出してしまった。
すぐにサイレンを鳴らした警察車両が追いかけてくる。
あたしは運転手の背中に二発、お見舞いし、あたしが運転席に乗り移り、急発進させた。
マーシャルは後部座席を銃座にして、追っ手をけん制する。
奪った武器を存分に使っている。
検問を突破し、警官をはね、マーシャルが自動小銃で後続のタイヤを撃って蹴散らした。
あたしはこの左ハンドルのベンツで平壌市内を縦横に走り抜けた。
交差点ではバスがよけきれずビルの一階に飛び込み、歩行者をなぎ倒している。
警察官が路上から撃ってくる。
このベンツは装甲がなされているのか、敵の銃弾が跳ね返っている。
防弾ガラスはひびだらけで、前が見えにくくなってきた。
とはいえ、このままだと、いずれつかまってしまうだろう。
もうずいぶん殺した。
殺しすぎた。
生きて祖国の地を踏むことは諦めねばならないだろう。
ヘリコプターまで追ってきている。
弾倉を取り替え、ひっかえ撃ちまくり、道連れを増やすことに専念する。
最後の一発は自分のために残しておこう…
マーシャルも同じ気持ちだろう。
「お父ちゃん、お母ちゃん、おっちゃん、もうすぐそっちへ行くからね。それから、祥雄さん、ごめんやで。最後まで勝手なことして」
あたしの全財産はたった一人の相続人である夫、祥雄に行くはずだ。
あの人には両親もいるし、年の離れた妹さんもいる。
誰かに面倒見てもらえるだろう。
ヘリから、対戦車砲が飛んできてベンツの至近でさく裂した。
バルカン砲の洗礼を受け、屋根と言い、ボンネットと言い、穴だらけにされて、ベンツは沈黙した。
振り返るとマーシャルの胴体がちぎれて、後部座席は血の海だった。
一瞬の沈黙…刹那の時がおとずれた。
あたしはこめかみにグロックのマズルを当てて引き金を引いたのだろう。
同時に目の前が真っ赤になり、ベンツが大爆発を起こしたがあたしは、強い光の方へ吸い込まれていった。
善人なおもて往生を遂ぐ…いわんや悪人をや
(おしまい)
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