パリに本拠のあるフランス空軍の第十八輜重(しちょう)部隊の空輸科輜重兵アラン・モリエール少尉は、ジポ(ナチス保安警察)に連行され、厳しい尋問を受けていた。
「君は、イヴォンヌ・ナオボンヌとどこで知り合った?え?」
保安警察官にドイツ訛りの耳障りなフランス語で訊かれる。
「知らん。1939年の今頃だったか、空輸科に配属されて来たんだ」
「彼女がレジスタンス活動をしているのをいつ知った?」
「あの子が(空輸を)辞めるまで知らなかった」
「うそつけ。いつも一緒に仕事をしておったのだろう?」
「ほんとだ。信じてくれ。辞めるときに、彼女は言ったんだ、マキに参加するって」
「ふん。じゃあ質問を変えよう。彼女の身内や行きそうな場所は知らないか?」
「知らない」
隠すと、「お前のためにならんぞ。厳しい拷問を受けるか?」
ここで言ったら、あいつに危険が及ぶ…アランはそう思ったに違いない。
「知らないと言ったら知らない」
「連れていけ」

執拗な拷問で、見るも無残にアランは傷めつけられていた。
ドイツ兵はサディスティックに興奮し、もはや取り調べをしているという自覚などなく、アランが血反吐をぶちまけるのを見て余計に昂ぶって殴る蹴るの暴行を与えた。
「Wasser(水)!」
ざばぁっと、バケツの水が彼に掛けられる。
アランは朦朧とする意識の中で、楽しかったイヴォンヌとの過去を思い出していた。
もう、楽になりたかった。
「ごめんよ、イヴォンヌ…俺はもうだめだ」
しばらくして、ドイツ兵がアランのあごを持ち上げた。
「どうだ?言う気になったか?」
あの取り調べのときのフランス語を話せる憲兵だった。
「ああ、言う。言うから、もう止めてくれ…」
「縄を解け。尋問室に連れてこい」
「はっ」
おそらくドイツ語でそう言ったのだろう、アランは病人のようになって引きずられていった。

ナチ保安警察部長リヒャルト・ローゼンハイムは、イヴォンヌ・ナオボンヌが空軍機空輸の任務のかたわら、レジスタンスに機密を漏洩させ、除隊後もマキ(抗独派)に参加し、妨害活動の中心的存在だとみている。
今月(1944年6月)六日連合軍にノルマンディーへまんまと上陸され、ドイツの敗色が濃くなってしまった。
ドイツは、連合軍がフランスのどこかの海岸に上陸することまでは暗号解析で知っていたが、その場所を特定できずにいたのだった。
逆に、ドイツの暗号機「エニグマ」の暗号が連合国側で解読されていたふしがあった。
そして…エニグマ機を盗んだスパイ容疑者の名簿にイヴォンヌ・ナオボンヌの名があった。

ローゼンハイムとて、この女がそれほど重要な人物をとは思っていなかったが、ゲシュタポの上層部からこの女を何としてでも捕まえて、女の一族郎党ともに、ガス室送りにせよと矢継ぎ早に言ってくるので仕方がなかった。
イヴォンヌはユダヤ人を逃がした廉(かど)でも、アドルフ・アイヒマンの怒りを買ったらしい。

一方で、イヴォンヌ・ナオボンヌはマキで精力的に工作活動に従事していた。
話はアラン・モリエール少尉が逮捕される一日前に遡る。
サヴォワ県に展開するマキ集団は、枢軸国イタリーによるマキ掃討作戦によって、多数の犠牲者を出していた。
マリウスはすでに亡く、最後まで一緒だったマリーとシモーヌとも散り散りになったジャンとイヴォンヌはヴィシーに向かって逃走中だった。
銃は重くのしかかり、疲れ切った体をいじめた。
「イヴォンヌ、もうすぐヴィシーだ、この国道を西に行けば」
「あたし、やっぱり故郷に帰りたい」
「プロヴァンスにか?遠いぞ。とにかくヴィシーに行ってからアシをなんとかしよう」
「わかったわ、ジャン」
あたしは、ジャンに頼り切っていた。
途中の村でパンとチーズを買い、谷間の水でのどを潤した。
南部フランスの山岳地帯の景色は、戦争でさえなければ、こんな美しいものはない。
ジャンと二人でここらで暮らしていければ…
しかし、父母の顔、弟のジャックのあどけない顔を思い出すにつれ、望郷の念に駆られる。

岩場の陰で一泊し、翌日の夕刻にヴィシーの外れにたどり着いた。
運よく通りすがりの農夫がトラックに乗せてくれたのだ。
「お前ら、マキだな」農夫は笑いながら言ったので、あたしたちは「しまった」と思った。
「安心せい、おれはお前らの味方だよ。といってもそんな物騒なものは持っていないがね」
と、あたしたちの小銃を見て言う。
「乗せてもらえる?」
「乗りな。どこまでじゃ?」
「ヴィシー」
「敵陣突破か?二人で。こりゃ勇ましい」
ほっほっほと笑いながら、豊かな白ひげの農夫は車を出してくれたのだった。
わたしはヒッチハイクというものを始めて経験した。

トラックから降りて、あたしたちは草むらに分け入った。
初夏の背の高い草が丘の上まで茂っていたのだった。
「あそこが空軍の詰め所よ」
「よく知っているのか?このあたり」
「ええ、空輸で、ほら飛行機が飛び立ったでしょ?あそこがヴィシーの空軍基地」
ジャンが双眼鏡でそのあたりを見る。
「日が落ちたら、忍び込むぞ」
ついていくしかなかった。

ピエール・ラヴァル首相になったヴィシー政権は、ノルマンディー上陸作戦以後、風前の灯火となっていた。
もともと脆弱なフランス空軍は、軍紀も乱れ、酒場は軍人のたまり場になっていた。
だから、簡単に空軍施設に入りこめた。
パリと違い、ナチスの官憲はほとんど見られなかった。
「どうする?イヴォンヌ」
「飛行機をいただくわ」
「そりゃまずいぜ」
「ほら、あそこ、エンジンが始動したままのポテがある」
あたしは、飛行場の格納庫から出したばかりのポテ63.11偵察機を指さした。
これから夜間偵察に向かうのだろう。
「走るわよ」
「お、おい」
あわてて、ジャンがついてくる。
あたしは、ポテ目指して駆け抜けた。
整備兵が輪留めを差し込もうとしているのを後ろから銃床で思い切り殴りつけた。
「ごめんね」
その足で輪留めを蹴散らし、そのそばをうめきながら転がる兵。
「ジャン、ここから乗って」
ステップに足を掛けてあたしはジャンを促した。
偵察機は前方銃座がガラス張りになって、視界を良好にしている。
機首の上にハッチがあってそこに入り込めるのだった。
ジャンを機内に押し込むと、あたしは、慣れた操縦席に陣取った。
だれも来ない。
あたしはスロットルを開いていき、プロペラの回転を速めた。
機体が前に進む。
燃料は八分目…十分だった。
異常に気付いたパイロットたちが追いかけてくる。
もう遅い。
あたしはタクシーウェイにポテを誘導し、そのまま離陸態勢に入った。
向かい風に機体は乗り、スロットル全開で操縦桿を引くとポテは軽々と空に舞った。
「うわ、すげぇや」
とは、前の特等席にいるジャンの声。
ジャンは飛行機に乗るのが初めてらしい。
あたしはプロヴァンスの夜空に向かってポテ63.11を操った。