日も沈もうとしているころだった。
丸窓の西日が消え入りそうになり、紫色の空に反転しつつあった。
「もうすぐヴィシーだ。アラン」
機長のジル・ボードワン少尉が後部貨物室で横になっている、けが人のアラン・モリエール少尉に呼びかけた。
アランは少し寝られたので、いくぶん元気を取り戻していた。
「なんだ、この荷物は」
むき出しの絵画や、シナの壺に混じって、ハーケンクロイツを捺した木箱があった。
宛先はヴィシー政府官邸気付となっているが「極秘」の文字もある。
差出人は…IV F
「IV Fと言えばゲシュタポの入国管理関係の部署ではなかったか?おそらく中身はユダヤ人から没収した旅券や査証だろう」
アランは確信した。
しかしなぜヴィシーにそんなものを送るのか彼には解せなかった。
「証拠隠滅のためにに、ドイツ国外に捨てるつもりなのだろうか。どうせ、この旅券の持ち主はガス室送りになったろうな」

「アラン、空港の様子が変だ」
「なんだって?」
「こちら、軍政郵便機第十一便、着陸許可を願います」
「第十一便は旋回して待機せよ。ただいま、直掩機が離陸準備に入った」
「了解、上空右回りで待ちます」
「アラン、どうやらマキ(抗独派)にポテを奪われたらしい」
「ポテを操縦できるマキなんて」
「どうやら、君の想い人じゃないか?犯人は男と女の二人組で、操縦しているのは女の方だそうだ」
「ジル、許可なんか待たずにおれを降ろせ」
「はぁ?気が確かか?」
「いいから降ろせ」
「メッサーがもう出るぜ、ぶつかっちまう」
「かまわん!」
「むちゃくちゃだな。しかたがない」
ボードワン少尉は操縦桿を握りしめ、機を立て直し「ユーおばちゃん」を着陸態勢に入らせた。
風下からの着陸だ。
「おい!十一便!何をする!」
無線ががなり立てる。
薄暮の空港で発進間近のメッサーシュミットBf-109Fが右往左往している。
「どけどけぇい」
ボードワン少尉が叫んだ。
対地五度の進入角でJu-52「タンテ ユー」は軟着陸した。
痛い足で飛び降りたのはアランだった。
アランは一目散に最も近いメッサーに向かった。
暖機運転でパイロットは不在だったが、整備兵がいる。
「それを借りるぞ」
「なんだお前は」
「やかましい」
小僧のような整備兵は「少尉」の階級章を見ると黙ってしまった。
「おれが追うから、あとはうまく言っておいてくれ。それから、輪留めを外してくれよ」
メッサーシュミットの風防は片側から押し上げ式で重い。
アランは二度ほど空輸でメッサーシュミットを操ったことがある。
「行くぜ」
少年整備兵はしぶしぶ輪留めを外して後ろに下がった。
アランのBf-109F(フリードリヒ)はフランスの円形章(ラウンデル)をつけたドイツ貸与機だった。
「待ってろよ、イヴォンヌ」
アランのメッサーが日の落ちたヴィシーの空に駆け上がった。
あろうことかボードワンのJu-52も後を追って離陸してきたではないか。
無線機のチャンネルは管制そのままの周波数になっていたので、管制官が怒り狂って叫ぶ声にかぶせて、ジル・ボードワン少尉の声が聞こえる。
「おれも行くぜ。ついていってやるよ」
「いいのか?知らねえぞ」
そしてそのあとから、数機のメッサーシュミットが追ってきていることも無線で丸わかりだった、
「この夜空だ、空戦はできまい」
下手に戦うと山肌に激突する可能性が大きい。
「プロヴァンスの方向はどっちだ?ジル」つい無線を使ってしまう。
「やめろよ、聞かれているぞ。北極星を背に南南西だ」
「かまやしない。メッサーは足が短い、そのうち諦めて帰るだろうよ」
「お前のメッサーだって同じだぞ」
「おれのせいでイヴや彼女の家族が危ねぇんだ。おれがしゃべっちまったから」
「拷問されりゃ誰だって同じさ。…さぁバカ話はやめてしばらく無線封鎖だぞ」
「了解!」

この無線の会話を傍受していたのは友軍のメッサーシュミットだけではなかった。
先行している偵察機「ポテ63.11」の二人も聞いていた。

あたしは懐かしい、ボードワン少尉とモリエール少尉の声に涙が止まらなかった。
追いかけてきてくれた…あたしのために拷問までされて…
「イヴ…やつのことが忘れられなかったんだな」
イヤホンを通じて聞いていた相棒のジャン・ルブランが窮屈な偵察席でつぶやいた。
イヴォンヌに消えぬ男の陰があったことくらい、ジャンにもわかってはいた。

水晶式の無線機は三チャンネルしか使えず、そのうちの1チャンネルが管制官の指示を聞くためのメインチャンネルだったのでそのままにしてあったのだ。
スピーカーというものはなく、すべて機内配線によるヘッドフォンかイヤホンで通信内容を聞くことになる。
このままの舵取りでふるさとに着けるかどうかイヴォンヌにもわからなかった。
新月で、幸い晴れているので、北極星はよく見えていた。
夜の短いこの季節なら、払暁にはプロヴァンスに入るだろう。

「やつらが帰る」
ジル・ボードワン少尉の声が無線機から聞こえた。
追っ手の足の短いメッサーが帰りの燃料を気にして引き返したのだろう。
「おれの機もあと100キロ飛べるかどうか。一山向こうのリヨンから援軍が殺到するかもしれんし、サヴォワのイタ公の空戦に巻き込まれたらガス欠だ」
アランの声だった。
「スロットルを絞って、省力運転でいけ」
「そっちはどうなんだ?」
「この『おばさん』は肥えてるから地中海を渡れるぜ」
「そうか。安心だな。ジル、その積み荷はな、ヴィシーに送るユダヤ人たちから奪った財物や旅券らしい。ヴィシーに渡すな。海にでも捨ててやってくれ。それとも連合側に渡してやるか」
「そうだな。おれも帰る場所がなくなっちまったさ」
「新手の追っ手が来るよ。きっと。まずはオーベルニュの基地からな」
「それより、イヴォンヌの実家だ。ナチは嗅ぎつけて先回りするだろう」

あたしは、はっとした。
そうだった。
もう故郷の家はナチにわかってしまっているかもしれなかった。

マルセイユ港からほどちかいイヴォンヌの育った家は、遠くに地中海を望む南面の丘にあった。
曙が東の空を染めるとき、国道をひた走る単車、キュベルワーゲン、ハーフトラックがあった。
マルセイユから派遣されたゲシュタポの一行だった。
ヴィシーの警察長官、ピエール・ラヴァルの差し金だった。
「イヴォンヌ・ナオボンヌの一族を捉えよ。そしてイヴォンヌ本人も生け捕れ」

あたしの目の前には見慣れた山塊が紫の夜明けに浮かび上がった。
プロヴァンスの東の山々だ。
マリティム・アルプスというイタリーとの国境の三千メートル級の連山である。
ポテの燃料もそろそろ尽きようとしている。
ジャンは寝てしまっているようだった。
ふと、五時の方向に機影が見えた。
「追っ手か?」
どうも三発の輸送機らしいことがわかった。
ユンカースJu-52だろう。
その横にメッサーシュミット戦闘機が見えた。
「ジルとアランだ」
あたしは、直感した。
向こうからはあたしのシルエットがはっきり見えているはず。
あたしは、操縦桿を左右に倒してエルロンを働かせて機体をロールさせ、合図してみた。
揺れに気づいたジャンが「なんだ、なんだ」と起き上がる。
「味方よ。そこからは見えないわね」
しばらくしてJu-52とメッサーも翼を振ってきた。
「まちがいない」
日が昇ればはっきりするが、そうすれば、敵にも見つかることになるだろう。

朝日が地上を照らすとき、ゲシュタポの車列があたしの視界に入った。
この国道はあたしんちへの一本道。
こんなところを軍用車が、それもナチの車がこんな時間に走っているのは奇妙だ。
あたしに気づいたハーフトラックは、友軍機のポテに対して銃を向けてきた。
このポテは偵察機で、7.5㎜機銃が3丁装備されている。
撃たれたら撃ち返すだけ。
後部銃座には誰もいないし、対地攻撃には役に立たない。
翼内機銃だけで応戦するしかなかった。
果たして彼らは撃ってきた。
当たりはしない。
あたしはポテの機首を下げ、急角度にハーフトラックを目指す。
またしても撃ってきた。
こっちも返す。
ハーフトラックの周りに土埃が立った。
慌てて飛び出す兵士。
あたしはペダルを踏んでポテを回し、再度、キュベルワーゲンの偉いさんを狙う。
その間、単車の兵が先を逃げる。
助太刀をしてくれたのはおそらくアランのメッサーだ。
単車は撃ち抜かれ炎上し、ライダーは谷底に落ちていった。
「おいおい、腹の中がでんぐりがえるぜ」
ジャンが偵察席から声を上げた。
再度、ハーフトラックに挑む。
盾を備えた機関銃で応戦してくるが、アランのメッサーにも対応せねばならず、射手が右往左往している。
メッサーのエリコン製モーターカノンが盾もろとも射手を吹き飛ばした。
そして、アランは野原を逃げまどうゲシュタポを執拗に追いかけ、なぶるように撃ち殺していく。
人体に20㎜銃弾はひどすぎた。
ゲシュタポは次々と粉々のひき肉状態になって穏やか朝の光になびく草萌え散らばった。
あたしは、かつてスガンさんのヤギの牧場だったところにポテを不時着させた。
その後ろにアランのメッサーが降りる。
最後に、Ju-52が着地した。
数人の村人が何事かと遠巻きに見ている。
その中にあたしの父母とジャックの姿があった。
「ママン、パパ、ジャック」
あたしは母の胸に飛び込んだ。
「どうしたというの?こんなに大騒ぎを起こしてこの子ったら」
「ナチをやったのか?でかしたぞ」と、パパ
後ろから、びっこを引いたアランと彼を支えるジル、そして少し離れてジャンがふらふらと近づいてきた。

「どうする?相棒」と、ジル・ボードワン少尉
「もう帰れんな」とは、アラン・モリエール少尉
「やあ、はじめまして。ジャン・ルブランと言います」
「あなたがイヴの今の相棒か」にこやかにアランが握手を求めた。
「彼女には、たまげました。振り回されてここまで来たのです」
「まさに、現代のジャンヌダルクだ」ボードワン少尉がつぶやいた。
「ちがいない」
三人の男の視線の前には母親の胸に抱かれるイヴォンヌ・ナオボンヌのいたいけな姿があった。

「すぐにナチの官憲がやってくるぜ。ぐずぐずしてられない」
アランが急がせる。
「お前のメッサーのアブラはどんだけ残ってる?」
「あと五十キロも飛べないだろうな」
「それなら、『おばちゃん(Ju-52の愛称)』にみんなで乗れ、スイスに行こう」
「武装がないぜ。イタリーのマッキやルフト・バッフェ(ドイツ空軍)のメッサーに追いつかれでもしたら一巻の終わりだ。おれが国境まで援護してやる」
アランが提案した。
「それじゃ、お前はどうなる」
「さらばだ。それでいい。ルブラン君、イヴを頼んだぜ」
そう言ってさっさとメッサーシュミットに戻ってしまった。

いやいやをするイヴォンヌをなだめ、アランがJu-52に促した。
ナオボンヌの一家がそれに続く。
ルブランがアラン・モリエール少尉と最後の握手を交わす。

ユンカースJu-52「タンテ ユー」はサッカーグランド程度の広場があれば楽々離陸できるほど安定な機体だった。
Ju-52とメッサーシュミットBf-109Fは北西の山岳を目指して飛び立った。

ほどなくハーケンクロイツを描いたメッサーシュミットBf-109Gのロッテの編隊が彼らを追った。
西からもイタリア空軍のマッキMC-202「フォルゴーレ」の援軍が合流するだろう。
そして、行く手を阻むアルプスの壁。
イヴォンヌ・ナオボンヌたちがスイスに無事につける保証などなかった。

(Fin)