おれが小学校を卒業するまではこの家にもオトンの会社の社員が二人、下宿していた。
今でいえば「社宅」というものだ。

オカンがまかないをして、朝と晩をおれら家族と一緒に食べていた。
その人たちも、家庭を持って独立してしまい、がらんとした空き部屋ばかりになった。
中学生になったおれは二階の、今、早苗に貸している部屋をもらった。
今から思えば、そこで八年以上も過ごしていたのだ。
南西向きの、旧家にしては大きめの窓で、表の通りに面していた。
通りを挟んで向かいもうちの土地で、オトンの会社の材木置き場になっている。
その窓からは、深い青色の二トントラックと、軽トラが二台仲良く停まっているのが見える。

今は、早苗に部屋を譲って、日当たりの悪い北東の四畳半の部屋に移っている。
早苗の部屋は六畳もあったが、ここは狭い。
窓からは、遠く北摂の山々が見え、真下にはよその畑が広がっていた。

ふすま一枚隔てて早苗の六畳間とつながっているが、おれがタンスを置いてしまっているので、そのふすまは開けられないことになっている。
もちろん開けようと思えば開くが。
年頃の女を守る意味で、一応の防御をしてますよというゼスチャーに過ぎない。
したがって、早苗の部屋に入るには、いったん廊下に出て、障子を開けて入ることになる。
その廊下は端で階下へとつながる階段になっているのだった。

「早苗は、いつから学校なんや?」
おれはアコギをつまびきながら、おやつを運んできてくれた早苗に尋ねた。
「八日に入学式やの」
「ほなら、土日はまた休みか」
「そうなるわね。月曜日から授業があるの」
「難しそうやな」
「あたしも心配…教科書、買ったんやけど、めっちゃ難しいの」
「そら、大学やからな。それも阪大やろ?」
「うん、まぁ」
おれは「厚切りバウム」を口にくわえ、『二十二歳の別れ』の前奏部を弾いた。
「あ~なたにぃ、さよならって言えるのは、きょおだけぇ」
二人で歌い出した。
「お兄ちゃん、大学って、お友達、すぐできるの?」
子供らしい質問だ。おれも最初は、おおぜいの知らん人々が集まる大学生活に戸惑ったものだ。
「まぁ、最初はなかなかできひんやろな」
「やっぱ、そう」
「誰に話しかけてええか、わからんもんな。昼かて、食堂に行くんやけど、もう味なんかわからへん」
「え、そんなに緊張するの?」
「食券買うやろ?阪大はどんな学食か知らんけど、もう、そらすごい人やねん。ごった返してな」
「お弁当にしよかなぁ」
「そんでも、どこで食うねんな」
「キャンパスとかにベンチとかあるやん」
「あ、ああ。女の子はそういうことしてたな。売店でサンドイッチなんか買って」
「あたし、そうするわ」
「まあ、当分は、慣れるまで時間かかるよ。五月の連休がヤマやね。五月病に気ぃつけや」
「うん。お兄ちゃんは今度の土日は暇なん?」
「土曜は友達に会う約束してるけど、日曜は空いてる」
「大阪見物に連れてってよ」
「え?」
かわいい顔で、早苗がおれを見る。ドキッとした。
「で、デートかいな。たまらんなぁ」
「ほら、たまらんなぁって。お兄ちゃんの口癖」
「おれでよかったら。ご案内するよ」
「わぁ、うれし」
おれも嬉しくなって『なごり雪』を披露した。

いま 春が来て きみは きれいになった
去年よりずっと きれいになった…
(作詞 伊勢正三)