印象派展は興味深く拝見したものの、私は人込みで律子さんと体がふれあい、その柔らかみに興奮していた。
ルノワールのなんという絵だったか忘れたが、人に押されてその前まで来たとき、彼女が私の手を握ってきたのだ。
「いい絵ね」「はぁ」「やさしさがあふれ出てる」「そうですね」
私は相槌をうつのみだった。手が汗ばんでくる。
「ふふっ」
それを感じてかどうか、彼女は無邪気な笑みをうかべて私を引っ張った。
皆目、何を見たのか覚えていない。
ただ、律子さんの首筋や後れ毛、視野に入るすべてに私は集中しているのだった。

気が付いたら、ロビーに出ていた。
「ああ、よかった」
独り言のように言い、律子さんは窓からさんさんと入ってくる日の光に照らされて私を見ている。
それは飯塚の妻としてではなく、私のために向けられた笑顔のように思えた。
一瞬でも、私は律子さんのパートナーだと錯覚した。
「私も、楽しかった」
自然に、私は律子さんの肩に手を回して横に立っていた。
律子さんは嫌がるそぶりも見せず、恋人同士のように寄り添ってくれた。
「行きましょうか」
「そこのカフェで一服します?」と律子さん。
「そうですね」
美術館の中にカフェがしつらえてあって、ほぼ満席だったが、入ってすぐの場所の老夫婦らしきカップルが出そうだったので、そこに座ることにした。
「律子さんは、美術は好きなんですか?」
「ええ。物心ついた時から絵は好きで、中学校では美術部に入っていたんですよ」
「そうなんですか。絵は今も描かれるの?」
「道具だけは大事に持ってますけど、もうやりません」
「そうですか。ぜひ、おやりなさいよ。見てみたいな、あなたの絵」
「ふふ。下手の横好きですわ」
そこへ頼んだコーヒーが運ばれてきた。
「律子さん…手をつないでくれましたね」「はい」「まだ、ぬくもりがのこっている」「戸田さんって、中学生の男の子みたい」
私は顔に熱が帯びる感じがした。律子さんは強いまなざしを私に送っている。
「飯塚に悪いな。律子さんとデートだなんて」
「気にしないで。私が誘ったんですから」
「てっきり、あなたと飯塚との相談に乗るつもりで来ただけなのに」
「あらあら、そうでしたっけ?」
おどけたように律子さんは軽く受け流した。その顔が愛らしい。
私は人妻に恋をしてしまったようだ。
これでは飯塚に合わせる顔がない。
私はコーヒーを口に運びながら、これからどうしようかと考えあぐねていた。
「戸田さん、また会っていただける?」
先に手を打ってきたのは律子さんの方だった。
「会うって…あなたは人妻だ」
「いいの。夫は、もう帰ってこないような気がするの」
私は衝撃を受けた。そして周りを気にした。
それほど、常軌を逸した言葉が律子さんの口から出たのだ。
「律子さん、落ち着こうよ。ぼくは、その、それはいけないと思う」
「やっぱり、だめですか?他人のお古の女は嫌ですよね」
なんということを言う人なんだ…私は、あわてた。
「出ましょうか」
そういうのが精いっぱいだった。
私も「据え膳食わぬは男の恥」くらいの言葉は知っている。
勘定書を今度は取って、私は彼女を促した。

どこをどう行ったか思い出せないが、私と律子さんは京都駅の前にいた。
もう夕日が傾きビルが暗い影を落としている。
「じゃ、私はこれで」
「また、お電話してもいいですか」
「いいけど、よく考えて。君たちは夫婦なんだから」
「はい」
「飯塚から連絡があったら知らせてください」
「はい」

私は夕日に向かって走る新快速に揺られていた。
今日あったことを反芻していた。
どうして律子さんは、私を誘ったのだろう?
最初から、確信犯だったのだろうか?
夫婦の間は冷めきっていると彼女は言っていた。
もしそうなら、不倫願望ではないか。
私は、自身の平凡な生活に不釣り合いの男女関係に対応しきれずにいた。
「遊ばれているのだろうか」
疑心暗鬼にもなる。
色恋沙汰に免疫のない私にとって、それは信じがたい青天の霹靂なのだった。
もし律子さんに下心があるなら、どうして金もない、顔もまずい私に近づくのだろう?
男っぷりなら飯塚の方がずっと上だ。
私はそんな、とりとめのないことを、なんども頭に巡らせていた。
茨木駅についたときにはとっぷりと日が暮れてしまっていた。