民法三十条 一項 不在者の生死が七年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる。(二項 略)
民法三十一条 前条第一項の規定により失踪の宣告を受けたものは同項の期間が満了した時に、(中略)死亡したものとみなす。
民法七七〇条 一項 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
三号 配偶者の生死が三年以上明らかでないとき
※生きているが居場所がわからないという事例では離婚の訴えを提起することはできない。あくまでも生死不明であることが条件である。

私は「ポケット六法」を閉じた。

今日、私は恩師であり上司の日下部教授の紹介で女性に会ってきた。
角野秀子といい、歳は私より二つ上の三十七歳で、大学の図書館司書をしていると言っていた。
私も図書館にはよく通っていたが、角野さんのことは全く知らなかった。
しかし、角野さんは私のことをずいぶん前から見知っていたそうだ。
実は図書館司書になってまだ一年半しか経っていないとかで、それなら私が知らないのも当然だった。
ここ二年ほどは、図書館には数えるほどしか足を運んでいないのである。
参考資料はもっぱら古文書なので、寺院や旧家を渉猟することが多いからである。

鼻筋の通った、愛らしい顔立ちで、小柄な女性っだった。
そしてどうしても律子さんを重ねてみてしまう。
律子さんは、すらりと長身で、最近はややふくよかになったが、劇団員だったころはメリハリのきいた体をしていた。

飯塚が行方知れずになってからもう二か月になろうとしていた。
季節は巡って、夏の香りがそこかしこにただよってきている。
和菓子屋には「水無月」の幟(のぼり)が立ち、雲の多いすっきりしない季節に涼風を感じさせた。
今日は、日下部先生と昼食を共にし、そのあと、角野さんと和菓子屋で喫茶もあるお店に行き、二人だけで少し話をした。

司書だけあって、読書好きな面で話が合いそうだった。
角野さんも丹波の実家から離れて、豊中の賃貸マンションで暮らしているという。
大阪大学文学部文学研究科東洋史学を卒業して、アルバイトをしながら司書の資格をとる勉強をしたそうだ。
私が日本史学で講座を持っているから、門野さんも見知っていたというのだった。
彼女は、最初は訥々とした語り口で、自分からは話さない様子だったが、打ち解けると結構、饒舌になるタイプだった。

また会う約束をして、電話番号とメアドを交換して別れた。

そして家に帰り、律子さんのことを思った。
あの春のデートから月一のペースで律子さんと逢瀬を楽しんでいた。
まだ彼女は人妻であるから、一線を越えるような、はしたないまねは、お互いにしていないが、こういう会い方をしているといつか大変なことになるのではと、私は恐れている。
もしここに、ふらりと飯塚が帰ってきたら…
彼のことだ、怒り狂って何が起こるかわかりゃしない。
その一方で、早く飯塚に戻ってほしいという気持ちもある。
そうすれば、この危うい律子さんとの関係も清算できるだろうからだ。
私は、日下部先生に従って角野さんとお付き合いしていくほうが誰も不幸にならずにすむのではなかろうかと思うのだった。

でも…
私には、魔性が萌芽していた。
このまま飯塚が返ってこなければいいのに。
角野さんと会う前から、その気持ちが強くなってきていることに気付いていた。
今月の始め、律子さんと三度目のデートをしたとき、鴨川べりを二人で歩いた。
その時、彼女が「失踪宣告」のことを口にしたのだった。
そういう法律の規定があることは、私も知っていた。
「わたしね、もう、いいやって思っているの」
そう律子さんは、明確な口調で言ったのだった。
「飯塚が帰ってくる見込みはないと?」
「だって、もう何か月も連絡をよこさないのよ。こんなことって普通じゃないわ」
「そりゃそうだが」
「死んじゃってるか、女と一緒に新しい暮らしをしているのよきっと」
「私はなんとも言えないよ」
「わたしだって、このまま飼い殺しはいやよ」
「わかるよ。わかるけど」
「戸田さんは、いじわるね」「え?」「私の気持ちなんかわかってない」「そんな」
あの日は、なんか二人は気まずい思いで別れたのだった。
律子さんは私に何を言ってほしかったのだろう。
私は朴念仁(ぼくねんじん)だから、彼女を受け止めることができなかったのだ。

「ああ」
私はうめいた。
そして角野さんの顔が浮かんだ。
飯塚の生死が不明なら、三年もたてば律子さんは自由だ。
裁判所に離婚の請求を申し立ててよいのだから…
私が律子さんに求婚してもいいのだ。
もし飯塚に律子さんに対する「悪意の遺棄」が裁判所で認定されれば、もっと早く離婚の審判が下るだろう。

ただ、角野さんがよければ、すぐにでも一緒になれるし、それが私にとって常識的な成り行きだと思った。
私は迷った。
こんなことで、身もだえするような気持になるのは私の人生において初めての経験だった。