今年は梅雨が長引くらしい。
おれは、ゆううつな気分で、玄関を出た。
今日から新しい職場なのだ。
西佐久市で一人暮らしを始めたのが五年前の今頃だった。
前の仕事がつらく、それでもなんとか六年近く頑張った。
染色の仕事で、暑く、汚い仕事だった。
その割に、給料は少なく、ボーナスも年一回、雀の涙ほど給料に足される程度だった。
職場の雰囲気もギスギスしていて、特に女性社員が意地悪だった。
いちいち思い出すのも嫌なので書かないが、なんであそこまで、嫌がらせをするんだろうかと思った。
現場の男たちは「気にすんな」「ヒステリーだろ」と半ばあきらめていた。
女の主任がいわゆる「お局」で、若い女子社員を取り巻きにして、新人をいじめたりするのだ。

おれは、そんな意地悪に耐えてきたが、限界を覚え、また絶望して転職することにしたのだった。
まだ二十八であるおれは、いさぎよく染色会社を辞めた。
五十万円ほどの退職金をもらえたことは、喜ぶべきことだったのかもしれない。
西佐久のハローワークに通い詰めて、やっと機械関係の製造会社に雇ってもらえた。
「この会社にも、いやらしいいじめがあるのかもな」と思いながら、今日を迎えた。

永光電鉄「久保駅」の改札で「稲田駅」までの切符を買った。
まだ定期代をもらっていないので、自腹である。
560円を券売機に投入して切符を買う。
朝の7時20分は、学生や会社員で結構混んでいた。

赤い車体の電車が入構してきた。
人に押されながら、車内の奥に流れる。かろうじて吊革にありついた。
五駅ほどの道中だが、三十分くらいかかる。
豊島学園高校の生徒が大きなバッグを持って集団で入ってくるから混むのだ。
おそらく野球部の連中だろう。
彼らは「学園前駅」で降りるはずなので、もうしばらくの辛抱だった。
「朝練ぎりぎりだで」「また二年生にしごかれるなぁ」
どうやら一年坊主らしい。

おれは車窓の外に目を向けた。
工場地帯と倉庫のならぶ、この辺は小さな製造業が多く集まっている。
今度の職場もそのような町工場だった。
「若いのが辞めちゃってね」
総務部長が禿げ頭をつるりとなでて、形だけの面接を始めたあの日を思い出していた。
おれは、「そうなんですか」とかなんとか言って、相槌を打つ。
「菅野圭太(すがのけいた)君か…前は、菱田染色に務めてたの?」
履歴書を見ながら、谷口と名乗った総務部長が尋ねてきた。
「はい。なかなかきつい仕事でして…」
「ここも楽じゃないよ。まぁ、染め物やさんと違って汚くはないけどね」
と、ひやひやと笑った。
「いやもう、暑いんですよ。工場が」
「へえ、そうなの。うちは、冷房完備だな。ま、まったく仕事の種類が違うから、一から勉強するつもりでがんばって慣れてよ」
「はい。じゃあ、即採用していただけるんですか?」
「もちろん。最初からそのつもりだったよ。こんな小さな会社に応募してくれたんだ、ご縁だと思って来てくれるかな」
「あ、ありがとうございます」
とんとん拍子に話がすすんだ面接だった。
おれはその日のことを、思い浮かべて、「これでよかったのだろうか」と自分に問うた。
会社概要の冊子には、職種がFA機械の組み立てとあって、おれが勝手に想像するには、工場で使われる製造装置を組み立てるのだろうと思っている。
なんでそんな畑違いの会社を選んだのかというと、仕事がきれいそうだったからだ。
それに年二回の賞与が魅力で、初任給も悪くなかった。

おれは荒川市の高専の工業化学科を出て、隣の市である西佐久の菱田染色に就職した。
先生が進めるまま決めた就職先だったので、後輩のためになんとか辛抱したのだった。

稲田駅に到着し、おれは車内から吐き出された。
雨が止んでいたが、蒸し暑い。
メガネが曇ってしまう。
駅前のロータリーに出て、左手の道を行けば、小さな町工場が見え、貧相な「太平機械工業株式会社」という看板がかかっている。
そこがこれからの、おれの職場である。
守衛室で用向きを伝え、右手のスレート葺きの社屋に行けと言われた。
「おはようございます。今日からお世話になる菅野です」
と、カウンター越しに伝えた。
四十くらいの女性が、愛想よくおれを応接室に案内してくれた。
「わたし、根岸といいます。総務の主任をおおせつかってます。もうすぐ谷口部長が参りますのでここで待っててください」
と言って、応接室を出て行った。
事務所にはあと数人の女性がいたが、菱田染色の女子社員のような冷たさを感じなかった。
ノックされ、あの谷口部長が入ってきた。
「よっ、おはよう」
おれは立ち上がって「おはようございます」とあいさつした。
「さて、菅野君には、第一製造課に入ってもらうよ。そこの谷口課長、これはわたしの弟なんだがね、その下でいろいろ教えてもらってくれ」
「はい。よろしくお願いいたします」
「じゃ、さっそく、行こうか。そうだ、君の作業着と靴を用意しなければいかんので、サイズを課長に伝えてやってくれ」
「あ、はい」
おれは、谷口部長の後ろについて、曇り空の下、敷地内を歩いた。
間口は狭かったが、懐の広い敷地で、奥に行くほど、三つの平屋の建物があり、手前から第一、第二、第三と銘板が壁に取り付けられていた。
第一製造課の自動シャッターを部長が開けると、機械油の匂いが鼻を突いた。
人はまばらで、ブルーのユニフォームを着た工員たちがおれのほうを振り向いた。
そしてまた自分の仕事に集中しだした。
詰所のようなところがあって、6畳くらいの部屋が仕切られていた。
そこに、部長と顔のよく似た三十半ばくらいの男が机に座って、パソコンを操作している。
「おう、課長、新人を連れてきたぞ」
「ああ、どうも」
「これが菅野圭太君だ」「菅野です。よろしくです」
「ああ、そこに座ってくれるか。手続きもあるから」
「それじゃ、おれは」
といって、部長は小部屋から出て行った。
課長がせまい机のすきまを横歩きで、おれの座っている机のほうにやってきて、
「えっと、菅野君だったかね、ユニフォームのサイズと安全靴のサイズを聞いとくよ」
「服のサイズはLで、靴は27㎝です」
課長はメモ用紙にそのことを走り書きし、電話の受話器を取った。
「あ、田中さんいるか?代わって」
しばらくして、
「あのね、新人の菅野君のユニフォームと靴を用意して持ってきてほしいのよ。上着とズボンはLで靴は27センチ。え?ズボンのウェスト?ちょっと待ってや」
「菅野君、ズボンのウェストも教えてくれるか?」
「えっと、そうですね。90センチで」
「あのね、90センチだって。わかった?じゃ」
そういうと、課長が電話の受話器を置いた。
「菅野君は、機械の組み立てってしたことある?」
「すみません、まったくないです。学校も化学(ばけがく)でして」
「ほう、バケ屋さんか。君は若いから、すぐに覚えるよ。バケの知識も必要だよ」
「そうですか?生かせますか?」
おれは、なんかうれしくなってそう言ってしまった。
「もちろんさ。機械油や洗浄剤、接着剤、塗装など、化学の知識が必要なものはここにはたくさんあるんだけど、機械屋はしょせん機械屋なんで、けっこう危ないことを平気でやっている。君のような知識を持った人が加わってくれると職場の安全も確保できるね」
と早口で課長が言う。
「ありがとうございます」

しばらくして、女の子がおれの制服と靴を持ってきてくれた。
「谷口課長、持ってきました」
「あ、田中さん、ありがとう。この人が今度入社した菅野君だ」
「よろしく。菅野です」
おれは、その小柄な、目の愛らしい女子社員にお辞儀をした。
「あたし、資材部の田中みかと言います」
おれは、彼女から制服と靴の入った箱を受け取った。
「では失礼します」そう言って、田中さんが部屋から出て行った。

「じゃあ、こっちのロッカーを使って、今から着替えてくれるかい?」
「わかりました」
部屋の隅にある、自分の身長ぐらいの薄いロッカーを当てがわれ、おれは急いで着替えることにした。