金曜日、おれと田中美香は別々に会社を出て、永光電鉄の「学園前駅」で待ち合わせた。
午後6時40分ごろ「ミスタードーナツ」でランデブーできた。
「待った?」「ううん、電車1本違いだから」「見つからなかっただろうね」「なんだかドキドキする」
美香は上気した表情で、おれを見あげる。
もしかしたら、おれのこと…
悪い気はしなかった。しかし、美香のことを何も知らないのだ。
職場でも、仕事のこと以外は会話がない。
こないだ、初めて彼女の方から今日の誘いを受けたのだった。

「ドーナツでも食べる?」「7時から例会が始まるの」「すぐそこだろ?食べても間に合うさ」
そう言って、おれはトレイを取ると、ドーナツの並ぶ棚に彼女をいざなう。
「好きなの、言いなよ」「じゃあ、フレンチクルーラー」「よし、おれも。飲み物はアイスコーヒーでいいかい?」「うん」
まるで高校生のカップルのように、おれたちはドーナツを選んだ。
実際、私立豊島学園高校の学生で店はいっぱいだった。
クラブ活動の帰りに、腹をすかせた学生たちがちょっと寄っていくところなんだろう。
なんとか、空いた席を取って座る。
「ふう…」
ため息が出た。
「ふふふ」
メガネの美香がえくぼを作って笑う。
「きみは、こういうデートとかしないの?」
「お付き合いしたこと、ないんです。男の方と」
「会社には若いのがいるじゃない」
「なんか、違うんですよねぇ…」
「合わないか…食べようぜ」「はい。いただきます」

「どんなSFを読まれるんですか?」ドーナツをかじりながら美香が訊く。
「そうだなぁ、ハインラインとかフィリップ・ディックとか」
「わお、早川ですね。あたしもスタートレックシリーズなんかかじってます」
「日本のものも好きだよ。矢野徹とか小松左京なんか、古いね。新しいものは知らないんだ。図書館で借りることが多いから」
「意外だなぁ。失礼。でも菅野さんって読書好きというよりアウトドア派かなって思ってた」
「それは根岸さんと山に行ったからだろ?実は、山登りなんてあれが初めてでね、えらい目に合ったよ」
「そうなんですかぁ」
「おれはインドア派さ」
「うふふ」
笑顔のかわいい子だと思った。
「じゃ、こんど図書館に一緒に行こうか」今度はおれのほうから誘ってみた。
「うわ、うれしい。行きたい」
まるで子供のように喜ぶ彼女が、いとおしく思えた。

遠見会館は、西佐久青年会議所の別名で、この建物の場所が遠見町であるからだと玄関の説明書きにあった。
おれはこの建物に入るのは初めてだった。
インフォメーションパネルに今日の会合の予定がペン書きされていた。
「西佐久児童文学会8月例会 2F211号室19時より」
とある。
「階段で上がりましょう」美香が案内してくれる。
階段で上がると、一番奥の多目的室が会場のようだった。
中から笑い声が聞こえる。
「あらぁ、美香ちゃん。来てくれたのぉ」と、ぽっちゃりしたおばさんが相好を崩して迎えてくれた。
おれは、そのあとに続いて部屋に入る。
「こちら、私の勤め先の方で、見学にお連れしました」
「あらまぁ、お客さま?」
「菅野と申します。田中さんに誘われて来ました」
「さ、どうぞこちらに」別の、マダムっぽい女性が席を進めてくれる。
どうやらこの二人の女性しか、まだ来ていないようだった。
壁の時計は、もう7時を回っている。
「今日は、大野さんとか、原さんとか来ないのかしら?美香ちゃん知らない?」とぽっちゃりさんが尋ねる。
「あたしは、伺ってませんけど」
「仕方ないわね、会長、始めましょうよ。お客様もお出でだし」
「そうねぇ」
マダムっぽい人がこの会の会長のようだった。
「えっと、今日は夏号の合評(がっぴょう)をやります。それから、今日は菅野さんでしたっけ、お客様がお見えですので、ご一緒に参加ください。申し遅れましたが、私は西佐久児童文学会会長を仰せつかっております宮城秀子と申します。そしてこちらが、副会長の保科美由紀さんです」
おれは二人に会釈して、こちらからも自己紹介させてもらった。
「こちらの田中美香さんに誘われてまいりました菅野圭太と言います。田中さんとは同じ職場で、机を並べて仕事をしております。自分も本が好きで、SF小説なんかをよく読んでます。今日はよろしくおねがいします」
「そうなの?お若い男性で読書好きなのはいいことだわ。まあここは児童文学を主にした会なので、菅野さんの好みに合うかどうかわかりませんが、こういった同人誌を年四回発行してまして、本ができると、会員が集まって会員の作品を読み込んで互いに評するということをやってます」
「はぁ。こういうの初めてなんで、どうしていいか…」おれは、戸惑いを隠せず、そう答えた。
「ええ、『帆船』の夏号をお渡ししますんで、私たちが合評するのを見ていてください。何か感じることがあれば、自由に発言してくださって結構です」と会長が、同人誌『帆船』を渡してくれた。
波頭を突っ切る帆船の絵が表紙を飾り、夏号と右側に書かれている薄い冊子だった。
開くと、目次があり、十作ほどの作品があるようだった。
田中美香の名前もあった。
「じゃあ、せっかくだし、美香さんの作品『友情』の合評をやりましょう。短いですから、菅野さん、お時間をつくりますので一緒に読みましょう」
「やだ、はずかしいな」と美香が赤くなって、下を向いている。
「じゃ、読ませてもらいます」
おれは、『帆船』を開き、12ページから始まる『友情』という短編を読み始めた。

小学5年の女の子「なつみ」が主人公で、ある日、クラスに転校生の男の子がやってくるという書き出しだった。
その男の子「たかはし君」は、引っ込み思案で、なかなかクラスに打ち解けない。
あまりしゃべらないから、主人公のなつみの方から、なにかと語りかけるのだが…

たかはし君の両親は離婚したらしいことがわかる。
それでお母さんに引き取られて、彼のお母さんの実家のある、なつみの小学校に転入してきたのだった。
しかし、しゃべらないのはそれが原因ではなかった。
強い東北の訛りがあったのだ。
なつみは、最初、聞き取れなかったので、何度も聞き返すうちに、ますます、たかはし君は口を閉ざすことになってしまう。
その秘密を知っているのは、なつみだけだった。
二人に奇妙な友情が芽生えたのは、クラスメイトからつまはじきにされるたかはし君をなつみがかばう事件があったからだ。

「どうですか?みなさん」と会長が促す。
「とてもね美香ちゃんらしい、お話に仕上がってると思うの。よく子供たちの気持をかき分けていると感じました」と、保科さんがほめる。
「菅野さんは、どう?」
「そうですね。なつみの、たかはし君に対する思いやりが良く書けていると思いました。田中さんの意外な才能を見せてもらった気がします。こんなお話を書ける人だとは、思いもしませんでした」
すると、田中美香はますます赤くなって下を向いてしまった。
「私もね、友情というテーマで、子供たちに問いかける良い作品だと思った。幼い恋心に発展していく二人の描写に美香さんの思い入れがあるんだと思います。で、一つ残念だなと思ったのは、二人の別れを入れたらどうだったかなと思うの。敢えてね」
「はい、私も大団円にしてしまって、予定調和を急いだかなという不安はありました。会長のおっしゃるように、二人の友情を確かなものとするために、試練を与えるという設定もありかなと思います」
おれは、普通のOLではない、田中美香の作家としての姿をそこにみた。
保科副会長が「友情をテーマにするというのは、児童文学の場合、ともすれば陳腐化しやすいのね。それほどよくあるお話なんです。そこを美香さんは、日常のささいなことを拾い上げて、上手に昇華させていったとでも言うのでしょうか、今後を期待させる作品だったと思いました」
宮城会長が、
「もう八時ね、待っててもみんな来そうにないので、今日はこれくらいにして、お腹もすいたでしょうから、晩御飯を食べに行きましょう。菅野さんもどうですか?お時間があるのなら」
おれも、これから家に帰って、冷凍食品を温めて食べるくらいだったから、ご一緒することにやぶさかではなかった。
「じゃあ、行きましょうか。田中さんも、行くんだろ?」「ええ」
「向かいのファンミリーレストランでいいかしら?」「はい」
そうなのだ、この会館と道路を挟んで向かいにファミレスがあったのだった。
四人が、横断歩道を渡って、向かいのレストランに向かう。
「菅野さんは、文章はお書きになる?」と保科さんが尋ねるので、「いえ、書くのは苦手なんです」と答えた。
「書いてみたら?面白いものよ」「そうですね。でも田中さんのお話は、プロの人が書いたようでした」「よしてください」とは、美香だった。
宮城さんが、「美香ちゃんは、俊英出版の懸賞で佳作に選ばれたこともあるのよ」と言う。
俊英出版といえば、児童向けの学習図鑑や「サイエンスキッズ」という科学雑誌を出している大手出版社だ。

ファミレスの入り口で、ウェイトレスが…「何名様ですか?」と訊いてきたその人が、なんと杉本礼子だった。
「す、杉本さん?」おれのほうが驚いてしまった。
「まぁ、けいちゃん」「あら、お知り合い?」と宮城さんがおれに訊く。
「ええ、山仲間というか」「へぇ」と保科さんが意外そうにした。
レイコさんは、仕事中なので、「四名様で、おタバコは?」「吸いません」「では、禁煙席の方へご案内します」とウェイトレス然として、おれたちを席に案内した。
美香がレイコをチラ見しているのが気になった。
「こちらがメニューになります。お決まりになられましたら、そこのベルでお呼びください。ではごゆっくり」そう言って、後ろから来た別のウェイトレスがお冷とおしぼりを人数分置いていった。
「菅野さんは、登山もされるの?」宮城会長が訊いた。
「いや、会社の人に誘われてね、その人の友人が今のウェイトレスさんだったんですよ」
「世間は狭いわねぇ」「ほんとそう」なんて保科さんと言い合っている。
美香は、だまっていた。
「好きなの頼んでね、あたしが持つから。保科さんもね」と宮城会長がにっこりして言う。
「会長、いつもすみません」と保科さんが申し訳なさそうに言う。
「だってみんな来ないんだもの。四人くらいならだいじょうぶよ。みなさん大食い選手じゃなさそうだし」
これには、みんな笑った。
ラッキーである。
おれはオムライス、美香はナポリタン、会長がカニクリームコロッケ、副会長がマカロニグラタンを注文した。

「今日だけでは、よくわからなかったと思うけれど、菅野さんに私たちの会に入っていただきたいものだわ」と、おもむろに会長が言う。
おれも、そう言われるんではないかと内心、思っていたが、そもそも文学を自分がやれるかどうか、おおいに疑問だった。
「興味はあります。しかし、おれにこういう文章がかけるはずもなく、ただ名前をつらねているだけになりそうで」「いいのよ。最初は。書きたくなったら書いてみて。身近な美香ちゃんに読んでもらったらいいじゃない」
すると美香が「そうよ。あたしも読んでみたいわ。菅野さんの」と、目を輝かせて言うのである。
「わかりました。よろしくご指導ください」「まぁ、そんなに硬くならないで」と会長が言った。

会長が問わず語りに、
「こういう会は、退会する人が入会する人より多くてね、今日も例会なのに、だぁれも来ない。みんな家のことや仕事で忙しいのだろうけど。月一の例会ぐらい出られそうなもんだけど…」
と愚痴っぽく言う。
「女の人がほとんどですか?」おれが訊いてみた。
「確かに女性会員が多いけど、男性も数人います。中でも大野さんは、熱心な方です。この『帆船』のも毎回寄稿してくれているし、飲み会には必ず来るんだけどねぇ」
おれはさっきもらった『帆船』を手に取って開いた。
「あたしのも、会長のも入ってるでしょう?読んでね」と保科さんが付け加えた。

ワゴンに料理を乗せてレイコさんがやってきた。
「ご注文のお料理は以上になります。今の時間はドリンクバーのサービスタイムですので、ご自由にご利用くださいませ」そう言いながら配膳して、去り際に「電話してよ」とレイコさんがおれに耳打ちした。
美香に聞かれたかもしれなかった。

その日、帰ってから、十一時ごろレイコさんに電話してみた。