何年ぶりだろう?車のハンドルを握るのは。
レイコの軽自動車はオートマチックだった。
おれはマニュアル車しか運転したことがなかったので、いささか戸惑ったが、レイコの運転を見ていたのですぐに慣れることができた。
朝の一戦で汗だくのTシャツのままが、車の冷房が効いて寒いくらいだった。

美香の家には国道から、県道に入って真砂(まさご)方面に向かう必要があった。
道路は比較的すいており、おれにとっては運転しやすかった。
ガソリンも満タンに入っている。
レイコが気を利かせてくれたのかもしれなかった。
カーステレオにはカセットテープが差し込んであったので、押し込んでみた。
「チャゲ・飛鳥」の「モーニング・ムーン」が流れて来た。
ベストアルバムかなにかだろうか?
「えっと、ここの交差点を左に曲がるんだよな」
ここから、少し狭い道になり離合が難しくなる。
小学校があり、小さなスーパーマーケットがあり、南東方向に道が斜めになっていくのだった。
特定郵便局の先に見覚えのあるコインランドリーが幟(のぼり)を立てている。
「ここを右折して、生垣の家だったよな…」
ハンドルを切ると、美香らしき女性が道端に立っていた。
「待っててくれたようだ」
おれは路肩に車を注意深く寄せて、窓を開けた。
「やあ、おはよう」
「へえ、菅野さんの車?」「あ、いや、友達の。乗ってよ」「うん」
助手席に彼女を誘い、シートベルトを装着するのを待ってから発車した。
「ひとの車だからね、ちょっとぎこちないかも」
「だいじょうぶなんですかぁ?」
「ま、だいじょうぶでしょう」
おれは、笑いながらハンドルを操った。
また来た道をたどって、今度は真砂駅の方に向かう。
永光電鉄の高架をくぐって国道を北上すれば、30~40分で新富橋(しんとみばし)という大きな町に出るはずだった。
おれの実家はそこから東の山手に向かったところにある。
「チャゲアスね」
「うん、友達が入れていったんだよ」
「あたし、好きよ。この人たち」
「そう。そりゃよかった」
曲は「ラヴ・ソング」になっていた。
「今日は、おとなし目の服だね」
美香は真っ白な半袖のブラウスで、胸元はそんなに開いていない。
ブルーのギャザースカートで足をあまり出していない長さだった。
「うん。もう、あんな恰好はしない」
きっぱりと言うのだった。
「おれは、いいと思ったんだけどな。でも、あんなことがあったんじゃね」
「お兄ちゃんだけになら、ああいうスタイルにしてもいいんだけど」
「え?そうなの?」
意味深なことを言う子だった。
「おれも男だぜ」
「わかってる。お兄ちゃんのためだけに着て来たんだから」
「うれしいね。また頼むよ」「またね」
ということは、おれのために露出してくれたってことか?
誘っているんだろうか?美香は。
でも今日はやめとこう。レイコにも釘を刺されたし…
「向こうに着いたら、もう昼だね。今日は何食べよう」
「新富橋でしょう?中華もあるし、イタメシもあるよね」
「イタメシって言うんだ。きみも」
「みんな言うでしょ?」
「ま、着いてから選ぼう」
おれの懐は、あたたかいのだ。
ほんとうに、この会社に入れて、おれは生活が安定したと思う。
こうやって、美香ともつき合うことができたし…

「YAH YAH YAH」のテンポのいい曲になった。
これはおれも好きな曲だ。
医者のドラマの主題歌だったと思う。
美香も足をトントンと合わせている。
おれは、まえからこんなデートを夢見ていた。
自分の車だったら、こんな軽自動車でなくて、セダンで女の子を助手席に乗せて海岸通りを颯爽と飛ばす自分を夢見ていた。
はやくカネを貯めて車を買おう…おれは、心に誓った。
「ねえ」
「なんだい?」
「この車って、女の人のじゃない?」
つぶやくように、美香が言った。
おれは凍り付きそうだった。
なんでわかったのだ?
「ちがうよ」
「そのサンバイザーに引っ掛けてあるサングラスって、お兄ちゃんの?」
うわ…確かに。これは女性用だわ。
「それから、このティッシュカバーも花柄だし」
おおっ。急いでいて気づかなかった。
「すごいね。君は探偵だ」
「車貸してくれる女のお友達がいるんだ」
おれの眉間に脂汗がにじんでいた。そうだ…
「実は、姉さんの車なんだ」
よかった。おれに姉がいて。
「そうかぁ、お兄ちゃん言ってたよね。年の離れたお姉さんがいるって」
美香は急に明るい表情になった。
「そ、そうなんだよ。無理言ってさ、借りたんだ。そしたらデートがんばってね、なんて言われてさ。ははは」
「ふふ。よかった」
おれも「よかった」と思った。

そんなこんなで新富橋に入り、ショッピングモールの地下駐車場に車を止めて、街に出た。
目指すギャラリーは新富橋駅のすぐそばの「リブレ21」というビルの一階にあった。
ガラス張りのギャラリーには数人の人影が見え、
「どうしようか、先に食事をしようか?」と、美香に訊いてみた。
時間がもう十一時を回っていたのだった。
「早い方がすいてるかもね。ここの二階にペスカドールっていうレストランがあるんだよ。行かない?」
「いいね。行こう」
スペイン地中海料理と書かれたその店は、夏休みのためかこの時間でも混んでいた。
「有名だから、混んでるね」と、美香。
「ま、並んでみよう」
入り口で名前を書いて、長椅子に掛けて待った。
前に親子連れが並んでいる。
ほどなく順番が回って来て、ギャルソンに誘導されて窓際の席に案内された。
「あたしね、魚介のパエリアが食べたい」
「うーん何にしようか。初めてなんでねこういうとこ」
「ご飯ものならパエリアで、パスタもあるみたいね。あ、これどう?スペイン風オムレツ」
「それにするか」
「それとガスパッチョ」「なんだいそれ?」「冷製スープ」
ギャルソンを呼び、注文を伝えた。

「あたしね、ヨーロッパに旅行に行くならスペインに行きたいな」
待つ時間に、美香が口を開いた。
「お兄ちゃんはアメリカに留学したんでしょ?」
「ああ、その話したっけ」「英文カタログを作り始めた時に、カリフォルニアにホームステイしてたって」「そうそう。それだけだ」
美香の顔は、ほんとにみずみずしく、幼げに見えた。
ただ、体が発達しすぎていた。
「アメリカのほかには行ってみたいところある?」
「そうだなぁ、英語の通じるところならどこでもいいんだけど、イギリスかね」
「お兄ちゃん、かっこいい」「よせやい」
おれは柄にもなく照れた。
「英語もね使わないとしゃべれなくなるんだ。だから、今は自信がないよ」
「そうかもね。あたしね向こうの絵本を原書で読んでみたいんだ」
そういえば、エリック・カールの絵本を彼女は探していた。
「丸善あたりで見つけたどう?手伝ってあげるよ」
「うん」
その笑顔が、おれだけに向けられていることが至上の喜びだった。

スペイン料理が前に並び、なかなかのボリュームである。
「すごいな、パンまでついてるぜ。食べきれるかい?」
「だいじょうぶよ。あたしけっこう食べるのよ。ま、だからこんなにふくよかなんだけど」
「おれは、そのほうが好きだよ」
「もう…」そういって赤くなった。
簡単に「好きだ」と言ってしまえるくらい、二人の距離は縮まっていたのだった。
たしかに彼女はよく食べた。
それも、とてもおいしそうに。
健康的な美香を見ていると、この子と家庭を築けたら幸せだろうなとさえ思うのだった。
「ガスパッチョはいけるね。夏にはもってこいだ」
「でしょ」
スペイン風オムレツを二人で分けて食べた。
魚介パエリアも小皿をもらって、分けた。
「ほんとうはこうやって食べるものなのよ」なんて言ってる。
たしかに量が多いので、何品も頼んで分けるのだろう。
レストランの壁にはサグラダ・ファミリアの遠景写真が大きく引き伸ばされて映されている。
「ペスカドール」という屋号はスペイン語で「漁師」という意味だそうだ。
ゆえに魚介を中心にしたメニューがおすすめらしい。

満腹になったおれたちは、ギャラリーに向かった。
「もう入らないよ」「アイスなら食べられる」「うへっ。絵を見てから連れて行ってやるよ」
美香は屈託なく笑った。
そして彼女の方から手をつないできた。
やわらかいその手は、彼女のやさしさをそのまま表現していた。
少し汗ばんでいるのは、お互い様。
「うふ」
美香の瞳にはおれしか映っていない。この優越!
「落とせる」と思った。
一階のギャラリーに入るとチケットを受け付けで二人分出した。
半券を返してもらい、美香にも渡す。
涼しい展示場には人はまばらだった。
パーティエーションしてあるので中は迷路みたいだが、順路の矢印があるので迷わない。
「友田遥(ともだはるか)」とは画家の名前で友田主任の奥様である。
まず、30号の風景画が目に飛び込む。
雄大な草原に、連山が薄紫色に染まっている。
寒々とした風景だが、画題は「山脈」としか書かれていない。
どこの風景かわからなかった。
「山脈」の半分ぐらいの寸法で、白樺林から透けて見える風景もあった。
画題は「途中」とあった。旅の途中ということか?はたまた人生の途中ということか?
具象はそれくらいで、次からはかなり画風が変化している。
奥様は友田主任が言っていたように「抽象」に傾斜していっているようだった。
「どう?」
「うまく言えないけれど、この絵なんかは、落下していくような感じがするわ」
「ほう。堕落かな?」「そんな感じかも。安定している場所から落ちるような」
なかなかの審美眼である。
その画題には「昨日・今日・明日」とあった。
濃紺の流線が画面の上から下に流れ、そのなかにとどまろうとするかのような一点の黄色い円。
時間の激流に流されまいと踏ん張っているが、実は流れてしまっている…
見ていると息苦しくなる絵だった。

次の絵は「クラインの迷路」とあった。
「クラインの迷路?」
美香が要領を得ない顔をしておれを見る。
20号程度の絵だが、白い画面に、表現は悪いが「尿瓶(しびん)」のような透明感のある物体が描かれていた。
おそらくガラスのマチエール(質感)で書かれた架空の物体(オブジェ)だろう。
「これはね、クラインの壺だよ」
おれは、かつてそのような数学の解説書を読んだことがあった。
「壺なの?」
「うん。クラインという数学者が考えた、内も外もない面を持った壺さ」
「わかんない」
「美香はメビウスの輪を知ってるかい?」「うん。裏も表もつながっているネジった輪っかでしょ?」
「そうだ。それの立体版がクラインの壺なんだよ」「へえ」
「来てごらん。この表面を追っていくと、ほらだんだん壺の内側に入って行って、またここに戻ってくるように見えないか?」「ほんとだ。目の錯覚?」「現実にはありえないんだけど、造ろうと思えばできるんだ。メビウスの輪のようにね」
クラインの壺は、実際にガラス細工で作ることができ、それはいささか無理があるのである。
壺の側面を破って外側と内側をつないでいるので、論理的には「詭弁」に類するものだ。
ただ、数式の上では、ちゃんとクラインの壺は存在し、そういう数学の一分野をトポロジーということくらいしか、おれは知らない。

「クラインの迷路」か、うまいこと言うな…
おれは友田遥という画家が、ある到達点に向かっていて、逡巡しているのではないか?と深読みした。
この画家は出口のない迷路にはまり込んでいるのだ。

それを友田主任は知っているのだろうか?

「あたしたちと同じね…」
「え?今なんて?」
「だから、クラインの迷路にいるのは、あたしたちだってこと」
ああ、なんてことだ。
美香は、何もかも気づいているのではないか?
おれがどんなに汚れていて、女にだらしがないのかを。
「どうしてそう思うの?」
「わかんないけど、お兄ちゃんとこの先も一緒に歩いていくとしたら、クラインの迷路に入り込むんじゃないかなって思ったの」
その目には、すべてを見通す力があった。
美香はただ者ではない…おれを怯えさせるには十分な存在だった。
そのあとの絵のことは皆目覚えていなかった。
まわりの人には、美香の後ろに追従して歩くだけの幽鬼のようなおれに見えただろう。

「どうしたの?お兄ちゃん。なんにもしゃべらなくなって」
「あ、いや、なんでもない」
「クラインの迷路のこと?」
美香は心を読むのだろうか?
「あの絵はインパクトがあった」
ぽつりとおれは答えた。
「お兄ちゃんさぁ、あたしのこと好き?」
「なんだよ、こんな往来で」
「もし好きだったら…お兄ちゃんにあげてもいい」「はぁ?」「言わせるの?女の子に」
おれは、この展開についていけなかった。