菱川会といえば、この西佐久で知らぬ者はいないほどの指定暴力団である。
そのトップに近しい人物を父親に持つ女を、おれは抱いてしまった。
そして「種付け」までもしてしまった。
知らないで、しでかした過ちとはいえ、ただでは済むまい。

菱川会の総領だった、菱川喜兵衛(ひしがわきへえ、1841~1911)は真砂港の「沖仲士(おきなかし)」を束ねていた人物で、その荒くれ男たちや、在日朝鮮人たちを面倒見ていたので、人望も厚く、脱法行為にも警察は甘かったそうだ。
菱川喜兵衛にはたくさんの「妻」がおり、当然、たくさんの子があった。
喜兵衛の子供らには「シマ」が与えられ、厳重に線引きし、互いに争わせないように誓約させた。
と、この程度の情報は、図書館に行けば簡単に得られる。

真砂港は、今でも国際港として外国船が多数訪れる港だが、明治時代にもすでに税関があり、入国審査の厳しい港だった。
お隣の朝鮮半島からの密入国者が後を絶たなかったからだと言われる。
明治後期に関東大震災が東京を襲ったが、そのときには在日朝鮮人がかなりの人口を占めていたため、日ごろ、彼らに低賃金の仕事を奪われたりした日本人のうっ憤が震災の生活苦で爆発し、朝鮮人たちにあらぬ疑いをかけて虐殺したりしたという。
たとえば、朝鮮人が「井戸に毒を入れた」とか「朝鮮人が日本人の家に火を点けて回っている」とか。
日本人の自警団は、そうやって、不満を罪なき朝鮮人に向け、どうしようもない震災による不幸のはけ口にしたのだった。
ただちに官憲や軍も動いて、このデマゴーグの鎮火に当たったが、広まった噂というものはなくならなかった。
身の危険を感じた朝鮮人たちは東京から西へ逃げた。
そしてこの真砂にも大人数が押し寄せたらしい。
菱川喜兵衛は、ただでさえ人手不足だった沖仲士の仕事を彼らに与えた。

真砂港に近いところで、韓国風焼き肉やキムチ、かの国のどぶろく「まっこり」が味わえるところが多いのはそのせいである。

田中美香の話では、美香の父親の田中龍兵は戦災孤児だったころ、菱川会(当時は菱川組)の若頭、菱川伴次(ひしがわはんじ)に拾われ、糊口をしのいだという。
闇市でのテキヤの手伝い、靴磨き、密造酒造り、行き倒れの死体処理など、ありとあらゆる「人のしたがらない仕事」をやって、菱川会の中で頭角を現し、菱川伴次の娘を娶(めと)って、美香を授かったということだ。

おれは、美香と関係をもってから、恐々として過ごした。
美香は「心配しないで」と慰めてくれるが…

もうすぐ新学期が始まるという8月29日の朝刊に、真砂港で学生服姿の二人の男子高校生の水死体が上がったと大きく出ていた。
おれは、出勤の準備をしながらその記事を読んだ。だんだん、おれの顔はこわばってきた。
「こいつら…あの高校生だ」おれは直感した。
美香を図書館の障碍者トイレに連れ込んで暴行を加えた、男子高校生二人だった。
名前を知る由もなかったが、開襟シャツの襟についていた豊島学園高校の校章は覚えている。
二人は顔をつぶされ、体にもひどい暴行を受けた跡があったが、死因は海に投げ込まれたことによる水死だと判定されていた。
「こんなことをするのはヤクザに違いない。菱川会だろう」
警察も暴力団関係者による犯行を疑っており、二人の交友関係を捜査するとのことだった。

会社に行き、事務所の美香のところへ、まず行った。
まだ、ほかの社員は来ていない。
「美香、今日の新聞見たかい?」「ええ」「あの子たち、美香にいたずらした子たちだよね」「気づいた?」
そう言って、不敵な笑みをおれに向けた。
おれは背筋が寒くなった。汗がつっと背中を流れる。
「美香が指示したのか?」「ううん。パパに話したら烈火のごとく怒っっちゃって、もうあたしには止められないわ」「それで…」「下っ端に、パパが指示して草の根を分けてでも探せってね。で、ついに舎弟が面通しに二人を連れて来たの」「美香はそいつらだと言ったんだ」「向こうもあたしの顔を覚えてたわ」「でも殺さなくたって」「あたしは知らないわ」
谷口部長が出社してきたので、この話は打ち切った。

次はおれの番だ…
おれは、事務所を出て第一製造課の建屋にうなだれて向かった。