豊島学園高校の二年生、赤星祐樹と園部智史が惨殺された事件で、容疑者として金永慶(キムヨンギョン)25歳が捜査線に上がり、指名手配されていると報道では出ていた。
キム以外に、数人の未成年者が捕まっているようだった。
おそらくこの韓国籍の男が街の不良どもを使って、二人を暴行の末、殺害したのだろう。
田中美香が「舎弟」だと言った男がこのキムだったのかは、彼女が口を閉ざしているのでわからなかった。
ゆえに菱川会がこの事件に関与しているかどうかも噂以上の確たる証拠はなかった。

あの事件からというもの、美香のおれに対する態度が変化したように思える。
おれが、警戒しているからそう思うのかもしれなかった。
美香は、このごろ積極的におれの部屋に来て、体を求めて帰っていくという生活をしていた。
美香もまた、淫乱な獣性を秘めていたのである。
極道の娘なのだから当然かもしれなかった。
ただ、美香は、根っからの極道とは思えない豊かな情操と教養をもっており、それは母親の影響だと美香自身が語っていた。
菱川半次の娘、菱川映美(えいみ)が美香の母親だった。
映美は、ピアノを教えられるくらいの腕前で、また新聞の俳壇で活躍したこともあるそうだ。
そんな映美が田中龍兵に嫁いで、美香が生まれたのだった。

今の美香の住まいは菱川半次の屋敷であり、半次が脳梗塞を患って半身不随になったのを、長女の映美が看病するために、夫と娘を伴ってそこに住まったのである。
半次は没し、田中龍兵・映美夫妻が屋敷を継ぐことになったと、美香が話してくれた。

どうりで、生垣の立派な日本家屋だと思った。
羽振りのよかった菱川家の分家の一つだったのだ。
美香の話では、屋敷の中に食客や舎弟頭が同居しているらしい。
現代にもそんな世界が存在するのかと、おれはますます恐怖を覚えた。

おれはしかし、杉本礼子との関係を切ることができないでいた。
美香に気づかれないように、礼子との逢引きを続けていた。

その日も、金曜の夜、礼子のマンションで食事をし、一緒にシャワーを浴びて、ベッドインしていた。
一戦が終わったころ、うとうとしていた。
ドンドンとドアをたたく音がし、チャイムが激しく鳴らされ、おれたちは跳び起きた。
「なんなの?こんな時間に」「だれか、急ぎなんじゃないか」
ガウン姿で礼子が玄関に向かう。
がちゃ…「おれだ」
男の声がし、「あんた、どうしたの?その怪我」という礼子の声が聞こえた。
「とにかく、入れてくれ」「ちょ、ちょっと」「だれかいるのか?」「うん」「まぁいい、手当てをしたら出て行くから」
おれは、その男の声に聞き覚えがあった。
あいつだ…大野麻人だ。
原発反対派で、記者をやっているという、児童文学会の。
おれは、身支度して、ベッドルームから出た。
大野と目が合う。
「なんだ、キミか。レイコのいい人ってのは」「…大野さんですよね」「こんなとこで会うとはな」

「なんなの?二人は知り合い?」「まぁね」と大野が言う。
大野は、顔にあざを作り、殴られたようだった。
手の甲にも切り傷があった。
礼子が救急箱を持ってきて、濡れたタオルも持ってきた。
「けいちゃん、冷蔵庫のお水を持ってきてあげて」
おれは、言われるまま、冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを出し、キッチンの洗いカゴからさっき飲んだグラスを取り出して水を注いで、大野に渡してやった。
大野は、ものも言わずに噛むように水を飲む。
「ふぅ。サンキュ」そう言ってグラスをおれに渡した。
「だれと喧嘩したのよ」
「いつものヤクザ野郎さ。おれの反原発活動がお気に召さないらしい」
「バカな記事を書くからよ」
「おれは正しいことを書いてるんだ。こそこそ、おれを付け回して、殴りかかってくる菱川会のほうがどうかしてるぜ」
「菱川会なの?相手」
「そうに決まってらぁ。ビールをもらえないか?」
「けいちゃん、ごめんね。ビールを出してあげて」
おれは、また言われるがままにキッチンに戻る。
スーパードライの350ml缶を開けて大野に渡した。
「やぁ、ありがたい」
そう言って、さもうまそうに喉を鳴らして飲んだ。
礼子が、大野の額の汗を濡れタオルで拭き、「痛そうね。そうとうひどくやられたわね」といたわるが、「なんの、これしき」と顔をしかめる大野だった。

おれは、この二人の関係が深いものだと感じ、それが不快ではなかった。
「しかし、菅野君だっけ、キミが礼子と昵懇だったとはね」と、おれに向き直って言う。
「はぁ、おれもびっくりしてます」
「いや、いいんだ。おれたちは割り切った関係なんだから、菅野君には嫌な気持ちにさせたかもしれないが」
「おれも、レイコさんに他の男性がいることは聞いてました。それがあなただったわけです」
「穴兄弟ってわけだな。今後ともよろしくだ」
「はあ」
「じゃ、ビールを酌み交わそうじゃないか。レイコ、もっとビールを持って来いよ」「わかったわよ」

こういうのを義兄弟の契りっていうのだろうか?
大野さんとおれは今以上に、親密になれたように思えた。

「菱川会に睨まれたら、あんた、命がなんぼあっても足りないわよ」
「わかってるさ。でも止(や)められんよ。この活動は住民の総意なんだ」
「小国得山(おぐにとくざん)が後ろにいるって噂よ」
「そんなこと知ってるさ」
小国得山は義勇党の国会議員でエネルギー庁長官であり、ガチガチの保守系政治家としてつとに有名だった。
その目的のためには手段を択(えら)ばない政治手腕は、経済界からは高く評価されるも、庶民からは悪代官のように見られていた。
日本鉱産という大手石油元売り会社の大株主で、日本海電力と強い関係を持ち、日本の原子力発電を強力に推進する政治家として小国は君臨していた。

「今日は、二人の時間を邪魔しちまったね」
大野が、二本目のビールを干しながら言う。
「あ、いや、そんな」
おれはどう受け答えしていいやら、困ってしまった。
「さてと、おれは退散するとすっか」
そういって腰を上げる。
「もう遅いから、泊まっていきなよ」と礼子が引き留める。
「そうですよ。大野さん」おれも慰留した。
しばらく考えて、大野は「やはり行く」と言ってきかなかった。
大野は、出て行ってしまった。
それが最後の別れになるとは、おれも礼子も思ってはいなかった。