どこかで運動会をやっているようだ。
歓声と拡声器の声が風にちぎれて聞こえてくる。
おれは美香を抱きながら、ベランダのガラス戸を開けて秋空を眺めていた。
「なんだか、あたし気が抜けちゃった…」
つぶやくように、遠くを見つめて美香が言う。
夏からこっち、ずいぶん大人びた表情を見せるようになった。
もっとも彼女も二十六歳だから、いままでが幼すぎたのだ。
「しんどかったね。手術」
おれはいたわるように、お腹を撫でる。
「でもね、よかったのかもしれないわ」
寝そべって、寄り添うおれを見上げながら美香が続けた。
「実はね、おれもそう思ってたんだ」
「そうなの?」
「過ちを犯すには、おれたちは未熟だった」
「そうね。まだ人の親にはなれないわね。あたしたち」

おれは、美香のつややかな髪に手櫛を通しながら、頬を撫でたりして愛おしんだ。
「ふふ、くすぐったい…」
「みか…」
「ねえ、ケイタくん」「うん?」「谷崎潤一郎の『鍵』って読んだことある?」「ないな…」
その作家の名前は知っていたが、作品の名前は知らなかった。
「ある夫婦の話でね、郁子っていう女性がヒロインなの。郁子は安西っていう美学者の後妻なの」
「ふぅん」
「テレビで津川雅彦が安西教授で、小柳ルミ子が郁子の役でやってたでしょう?」
「いや、知らないな」
おれ本当に、テレビをあまり見ないので知らなかった。
「そう…うちのママなんか夢中で観てたけど」
「どんな話なんだい?」
「それがね、安西教授が郁子よりかなり年上でね、前妻の連れ子の敏子っていう、年頃の娘がいるのに、郁子を後妻に迎えてるの。その経緯はよくわからないけれど、話はそういった年の離れた夫婦の夜の営みに関するものなのよ」
「おやおや…きみはそう言うのが好きなんだ」
「嫌いじゃないわ。谷崎だからいいのよ」
「文学少女が耳年増(みみどしま)だっていうのはわかったよ」
「でね、教授は日記をつけてるの。その日記の中に性的なこと、郁子との交わりのことなんかをことこまかに書くのよ」
「変人だね。その教授」
「まあそうね。パパに聞いたら、あの年だから下半身が言うこと聞かなくなって、そういう自分が情けなくなるもんなんだ。だから刺激が欲しいんだな、なんてドラマ見ながら言うんだ」
「ざっくばらんなご家庭だ。ははは」
おれは、まだ見ぬ強面(こわもて)の龍兵氏を想像し、快活な映美夫人、その二人に囲まれた美香の団欒の情景を思い浮かべた。
「教授はね、その日記を敢えて郁子に覗き読みさせるように、書斎の机の抽斗(ひきだし)の中に仕舞って施錠して、その抽斗の鍵をわざと見えるところに置くわけね。そこへ部屋の掃除に入った郁子が目ざとく見つけて、案の定、教授の赤裸々な日記を読むのよ」
「だから題名が鍵なんだな」「そう」
どうやら安西教授とやらは、後妻の妖艶な肢体にぞっこんなんだが、彼女をよろこばせる技術や体力がないらしいのだ。
もしかしたらインポテンツなのかもしれなかった。
高血圧の持病があって、主治医からも生活習慣について強く制約を受けていたのである。
なのに気持ちだけが逸(はや)って、郁子にむしゃぶりつくのである。
そのありさまを事細かに日記にしたため、郁子にひそかに見させ、彼女の反応を自身の性的刺激を高める手段にするという話らしい。
娘の敏子に、木村という遊び人風の若いカメラマンが縁談を申し込んできた。
木村は、本当は敏子ではなく、郁子に気があって安西家に近づいてきたのだ。
安西教授がそのことに気づかぬはずがなかった。
郁子も夫に愛されているから、木村との一線を超えないように逢引きを重ねる。
しかし
郁子の体は正直で、教授よりたくましい木村の性欲と技術で性に目覚めるのだった。
郁子は酒を飲むと、前後不覚になり、自宅の風呂で倒れるという痴態を何度も演じ、教授と木村の二人で介抱するという場面に出くわす。
郁子の卒倒を利用して、木村にわざと郁子の裸体をさらす安西であった。
安西は、木村が郁子の体に夢中になり、郁子も不倫に身を任せるだろうと目論んで、けしかけているのだ。
そして日記に、あられもない表現で情事をしたためる。
郁子も日記をつけて、夫に見えるように仕舞い、互いに交換日記を企てるのである。
ついに、酩酊して気絶している郁子の裸体を安西は、木村から結納代わりにもらったカメラで撮りまくるという奇行にでた。
そのあと、激しく交わり、郁子は夢うつつで「木村」の名を呼んで果てるのである。
このことが安西をさらに欲情させた。
安西は、嫉妬によって欲情が掻き立てられることに喜びを感じるのだった。
エスカレートする安西の行為は、裸体写真の現像を木村に依頼するのだった。
当然に郁子の痴態は木村も目にするはずだった。
安西はそうさせたかったのである。そしてもっと郁子が木村に傾斜していく姿に嫉妬し、おのれの劣情をかきたてるのだった…
父親と後妻のゆがんだ毎夜の営みも、婚約者木村の本心もすでに嗅ぎ取っていた敏子は、冷めた目で彼らを眺め、チェロの練習に没頭する。

美香の長い説明は、だいたいこのような内容だった。
少し、読んでみたくなる内容だった。

「美香は、不倫とかどう思うんだい?」
「許せない」と、きっぱりと言った。
「郁子のような生き方は嫌いなんだね」
「そうでもないわ」
「木村は親子丼を食べたのかな?」
「なぁに?親子丼って。そんなの出てこないわよ」
「知らないのかい?男が、母親とその娘と同時に関係を持つことさ」
「あはは、うまいこと言うのね。木村は最初、敏子を抱くわ。郁子は木村の誘いを頑なに拒んでいるのよ。夫を立てて…」
「それでもついに木村の軍門に降るんだな」
「やっぱり、若い男にはかなわないもの」
「教授は持病持ちだしな」
「そこがポイントなのよ。何度も卒倒しかけるのよ。そのたびに主治医に叱られて」
「腹上死が、やっぱり最期かい?」
「ふくじょうし?」
「セックスの最中に、女の腹の上で死んじゃうことさ」
「あ、それに近いわ。郁子との行為の最中に発作を起こすんだけど、教授は一命をとりとめるの」
「ふぅん」
「そんで寝たきりになっちゃう」
「大変だ」
「木村はね、安西家の遺産目当てだったから、娘と婚約したんだよ」
「お金持ちだったんだ。教授」
「もともとはね。美学者だから書画骨董っていうのかな、それに散財して、財産なんか住んでる土地と家ぐらいしかなかったんだけどね。死んだら借金だらけだったのよ」
「問題は、死に方だよな。相続人の殺人だと遺産はふいになっちまうから」
「郁子にはね殺意なんかなかったのよ。最期まで夫を愛していたわ。半身不随で寝たきりの夫がね、郁子の日記を枕元で読んでくれって最後の最後まで言うのよ。郁子は、もう夫が読めない日記を、枕元で音読するの」
「刺激が強いんじゃないか?そういうことを書いてある日記だろ?」
「でもね、開いたページには何にも書いてないの。郁子はあたかも書いてある日記を読み聞かせているかのように、あけすけな木村との情事を話し出すわ」
「うわぁ、いいね」
おれは、そういう演出に好感が持てた。
「教授は、その赤裸々な愛の交歓を聞かされ、もだえ苦しむわ。そこに、郁子は日記を閉じ、帯を解いて、教授の前に裸体をさらし、かぶさっていくのよ」
「そこで、こと切れるんだな」
「だから、郁子に殺意はないの。殺したとは言えないし、もしそうなら、刺激の強い日記と知って父親に持ってきた敏子だって確信犯だし、遺産狙いの木村だって怪しいわ」
「ある意味、ハッピーエンドだな」
「あたしもそう思うの」

「しようか」
「うん…」
美香は、おれに激しく抱き着いてきた。
『鍵』のあらすじを話すことで、彼女も情欲を掻き立てられたらしい。