大賀川(おおががわ)は暴れ川だ。
昔から、雨季になると、洪水になった。
今でこそ、堤防が築かれ、湾曲部は補強され川の西側一帯の被害は食い止められたが、その昔には、人柱を立てるなどの暗い歴史を残していた。

明石直之(あかしなおゆき)はこの川の西側にある、その名も「西ノ端(にしのはた)」の出身だった。
彼の幼いころも、床上浸水を何度か経験していた。
西ノ端集落は、かつて災害で家を失った人々が寄り添うように暮らすようになった、川べりの部落である。
大賀川が天井川(てんじょうがわ)のために、堤防が決壊すると、すぐに土地の低い、西ノ端を泥水が襲った。
どの家も古く、何度も水害に耐え、建て増したり、結合したりして、部落自体が有機的につながっているようだった。
尋ねれば、互いに血の濃い親戚同士ということもあって、そのような佇(たたず)まいとなったと住人たちは言うだろう。
そこで一生を終えるのなら、ぬるま湯のような世界だった。
しかし、いずれ、男は社会に出てゆかねばならない・・・

西ノ端の者は川の東の禅定寺(ぜんじょうじ)町の者たちから、いわれのない差別を受けていた。
直之も、心ない言葉の暴力に心を痛めた経験があった。
「お前は、ニシノハタの出か」その言葉だけで、十分な畏怖を感じるようになってしまった。

学校は、禅定寺の子たちとおなじ、禅定寺小学校に通っていたし、中学も、禅定寺中学だった。
高校は、坂田市の県立坂田高校に上がったけれど、やっぱり差別はつきまとい、彼はとうとう中退してしまった。
それからは、国鉄禅定寺駅前に新しくできた、この辺りでは珍しい「スーパーマーケット」でアルバイトをして両親や弟を助けてきた。

直之が二十一歳の春、勤めているスーパーに笑顔の愛らしい娘が毎朝来るようになった。
電車通学らしく、お弁当のための菓子パンとかサンドウィッチなどを買って、駅に向かうらしいのだった。

レジで、彼女をみかけると、彼まで笑顔になる。
県立坂田高校に通っているらしいことは、見慣れた制服で分かった。
直之にも、屈託なく笑顔を振りまいて、
「おはようございます」
と元気に挨拶してくれる。
直之は、言いようのない優しさを感じた。
春が過ぎ、夏になって、制服も涼やかになったころ、その大人になりかけの少女の眩しさが、暗い直之に、苦痛を感じさせるほどだった。
それでも精一杯、彼女がレジに来た時は、一言、二言、声をかけることができるようになった。
もっとも、彼女の方から声をかけてくれるから、できることなのだけれども。

夏休みになると、直之はつまらなかった。
名も知らぬ想い人が、来ないからだ。
とはいえ、クラブ活動をやっているのか、週に三回ほど昼近くになると来て、やはりパンを買っていってくれる。
「今日は、クラブ?」
「ええ、ブラスバンド部なんです。フルートやってるの」
「へえ、すごいな。俺なんか、楽器はからっきしだめでさ」
「だれでもできますよ~。あたしなんか音符も読めなかったんだもの」
客が一人ももいなかったので、そんな話をレジですることができた。
上気した少女の顔に、直之にも彼女の体温が移るような気がして、体が汗ばんだ。

秋が来て、冬になる頃、直之は家を出た。
一人暮らしをして、自分の力で生きていきたいと、常々思っていたから、父親にそう言うと、快く背中を押してくれた。
スーパーの近くに安いアパートがあって、店長の「はからい」でそこに住まうことが叶った。
店長の岩崎は、都会から来た「外者(そともの)」なので、被差別部落のことなど知らないらしく、仕事に真面目な直之に、何くれとなく相談にも乗ってやり、来年度には正社員にも取り立てる約束を本店から取り付けてくれ、一人暮らしをしたいといえば、そのための手当もしてくれたのだった。

家具一つ無い直之の新居。
師走というのに、電気ストーブが一台の、寒々しい部屋だった。
食事は、岩崎が店の売れ残りをくれたので心配はなかった。
自宅から、布団と着替えと洗面具と食器、ストーブ、そして数冊の文庫とラジオを持ってきただけだった。
自転車の荷台に積めるだけだったので、それで精一杯だった。
引っ越すと言っても、一キロ程度の距離である、母も心配してはいなかった。

年が明けて、直之も新たな気持で、生活をスタートした。
勤め先のスーパーも、年末から初売りまで、目の回るような忙しさだった。
小正月も近づいたころ、やっと落ち着き、学校も始まったのか、あの子も毎朝来るようになった。

「おめでとうございます」
彼女の方から、新年の挨拶をしてくれたのが十日の朝だったと、直之は記憶していた。
「おめでとう。今年もよろしく」
ぶっきらぼうに、直之も応えた。
菓子パンと飲み物を買って、彼女は白い息を吐きながら元気に出て行った。
その真っ黒なつややかな髪を直之はしばらく、見送っていた。
ふと、床に四角いものが落ちているのを見定めた。
「あれ、あの子、何か落としていったぞ」
レジの前に出て、直之はそれを拾った。
国鉄の定期券だった。
藤原明日香・・・
なんという、可憐な名前なんだろう。
初めて、直之は、想い人の名を知ったのだった。
「早く届けてやらないと」
直之はスーパーの表に出た。

向こうから、案の定、彼女が慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。
「藤原さ~ん」
直之の口から自然に彼女の名が出た。
「あ!そこにありましたぁ?ごめんなさ~い」
「はい。レジの前に落ちてましたよ。藤原明日香さん」
「あは・・・名前、わかっちゃったね。明石さん」
スーパーのジャンバーの名札を見て、明日香も、にっこりと笑って言った。
「さ、早く行かないと、電車が来ちゃうよ」
「うん。ありがとう。明石さん。じゃ」
再び、元気に走り去る女子高生の後ろ姿を、直之が見送ることとなった。
その日は、ひどい寒波だったのに、直之の心がぽかぽかと暖かかった。

「これ」
はにかむように、少女はリボンを掛けた小箱を直之に手渡した。
二月十四日の朝早く、直之がスーパーの店の前を掃き清める時間のことだった。
「え?」
予期せぬ展開に、直之は戸惑いを隠せなかった。
自然に出た手が、少女の贈り物を受け取った。
上気した少女は、一瞬、顔を上げ直之を直視し、素早く踵(きびす)を返して、走り去った。
ぼうっと、直之は少女、藤原明日香の後ろ姿を見つめて佇んでいた。

バレンタインデーのチョコだと気づいたのは、しばらくたってからの事だった。
店では、その行事に当て込んだ売り出しをしていたのにもかかわらず、自身に起こった出来事について、にわかには信じがたかったからだ。
それほど、バレンタインデーなど、直之には縁遠いものだと思っていたからだ。
贈り物には小さな手紙が添えられていた。
「明石様、毎朝、声をかけてくれてありがとう。ほんの私の気持ちです。受け取ってください。いつも思っていました。明日香」
意味深な内容だった。
直之の鼓動が早まった。
「いつも思っていました・・・か。オレのことを、と言う意味かな」
直之だって、明日香のことを思わぬ日はなかった。
「お互い、思っていたってことだよな」
思い切って、明日香をデートに誘ってみようと、直之は決心した。
その日は、興奮して寝られず、激しく勃起してしまっていた。
明日香の笑顔を思い浮かべて、布団の中で自らを汚(けが)した。
そして、深い後悔の念にさいなまれた。

いとも簡単に、明日香は直之の誘いに応じた。
互いに想い合っていたのだから、当然の帰結だったのかもしれない。
客が途切れ、レジを打つ、ほんの合間に、その言葉は交わされたのだった。
「いいよ」
「じゃあ、土曜日の九時、駅の改札」
「わかった」
ベージュのマフラーをなびかせて、明日香は店を出て行った。
直之は次の客のカゴを引き寄せながら、それを見送った。

その日、おあつらえ向きに快晴だった。
まだまだ寒い、二月である。
直之は、約束の時間より二十分も早くそこにいた。
明日香も、しかし、早めに来てくれた。
約束した時間を十数分も残して、早々と恋人たちは改札の前で見つめ合っていた。
直之は黒い革ジャンとジーンズ、明日香はチャコールグレーのジャケットにクリーム色のタートルネックのセーターそして、流行りのコーデュロイの短いスカートだった。
その足元はアイビーな白地のハイソックスと買ったばかりのVANのスニーカーだった。
「どこいく?」
「そうだね、とりあえず、坂田まで行こうか」
「うん」
坂田市駅なら映画館も、食べるところもある。

登りの気動車は五分ほどでホームに入ってきた。
エンジンの音ががらがらとうるさい。
排気ガスも青い煙を出している。
明日香を先に乗せ、後から直之が入っていった。
銀製だろうか、菱型のペンダントが少女の胸元に揺れている。
「明日香ちゃんって呼んでいいかい?」
ぶっきらぼうに、直之が訊く。
「あすかでいいよ。明石さんのほうがお兄さんだもん」
「じゃあ、おれも直之でいいよ」
「じゃ、直之さん」
「うん」
「あすかは、映画とか何が好き?」
「アクションものか・・な」
「へえ。洋画?」
「うん、洋画がいいな」
「映画、観に行こうか」
「うん」
見慣れている車窓の景色は、直之が隣にいることで、まったく明日香には違って見えた。
明日香が、大人への一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。