父よりも兄の剣幕がすさまじかった。
明日香の妊娠を知った藤原家の人間は、ことごとく彼女を責めた。
辛うじて、母の京子が、かばってくれたが、直之との交際は許さなかった。

兄は、妹を犯した男をすぐさま調べ上げ、明石という男が、西ノ端の出身であることまで突き止めてしまった。
「こんなことは、藤原家の恥辱だ」
兄は、冷たい目で明日香に言い放った。
「おれが、その男のところへ行って、落とし前をつけさせて、別れさせてやる」
そんなことまで言うのだ。
「兄さん、やめてください。直之さんは、悪いことない・・・あたしが、みんな悪いの」
「ちっ・・」
舌を打って、汚らわしい虫でも見るような目つきで妹をねめつける。
「その、腹の子はどうするんだ。当然、堕ろすのだろうな」
「いやよ。産むわ!」
「ばか者!なんという・・・なんという・・・お前というやつは」
わなわなと怒りに震える兄、功一。
何がそんなに腹立たしいのか?
明日香には皆目、解せなかった。
父が怒り狂うのならともかく、どうして兄がそこまで忌み嫌うのか・・・

父はというと、別のことを考えていたようだった。
明石某という男に娘をくれてやることはできないのは、功一と同じだったけれど、早く、自分の知己の息子に嫁がせて、事態の収拾を急ぎたかった。
「なあ、明日香。そのお腹の子は産んでもいい。しかし、ヤツとの結婚はならん!」
「お父さんまで・・・嫌よ。あたしは直之さんと一緒になるの」
言い出したら聞かない明日香の芯の強さは、家族の誰もが認めていた。
「頑固者。勝手にしろ」
そう、言い捨てて、泰造は居間を出て行った。
兄もその後に続いた。
かび臭い居間には、母と娘が置き去りにされた格好だった。
「ねえ、明日香。あなたの気持ちは痛いほどわかるわ。母さん」
「だったら、許してよ」
「あたしは許してあげたい。でもね藤原の家も大事なの。お父さんは、来期は県議会に挑戦なさるのよ。そんな大事なときに、あなたがこうだと・・・」
「もういい・・・」
明日香は、徒労感を抱きながら自室に向った。

その未明、明日香はカバン一つで家を出た。
もう、それしかなかった。
屋敷は深閑と静まり返っていた。
いつも遅くまで明かりのついている兄の部屋も暗くなっていた。
明日香は、裏木戸をくぐって、柿の木の下を通り、表に出た。
スニーカーは足にしっくり合って、足音をほとんど立てなかった。
明日香はひたすら駅に向かって歩き、直之のアパートの前に着いた。
午前六時二十分、もう空は明るくなり、スズメのさえずりさえ聞こえる。
コンコン・・・
ノックの後、しばらくして玄関に人の気配がし、ドアが開いた。
「あすか・・・」
「直之さん。あたし、出てきちゃった」
「入れよ」
事情を話し、これからどうしようかと思案する二人。
「いずれ、ここも兄にわかってしまうわ」
「そうだな」
「お金、これだけしか持ってこれなかった」
明日香が差し出したのは、彼女名義の郵便貯金の通帳と印鑑だった。
直之が開くと、百万円近く残高があった。
「逃げよう。直之さん」
直之は、しかし、躊躇していた。
逃げて、どうするというのだ?

直之も上司の岩崎店長には、事情を話してはいた。
明日香の妊娠のことも。
店長は、直接、明日香の両親に会って、話すべきだとも言った。
「それがせめてもの、大人の責任の取り方だよ」
わかっている。
それは、わかっているから、悩んでいるんだ。
直之は叫びたかった。
しかし、店長にそれをぶつけたところで何になるというのだ?

「ね?行こう」
屈託なく、いつもの表情で明日香が直之の顔を覗き込んだ。
すべてを捨ててしまうなら、今だ。
荷物をまとめ、家主への手紙と今月の家賃分を茶封筒に入れて折りたたみテーブルの上に置き、その横に鍵も添えた。

七時半、二人は身支度を整えて禅定寺駅にいた。
しかし、そこには一足先に着いていた明日香の兄、功一が立っていた。
「おまえ、妹をどうするつもりだ」
甲高い声で、兄が詰問した。
「あんたが、わからずやの兄貴かい?おれは、明日香を守る」
直之も負けてはいない。
「けっ、聞いたふうなことを言う。誘拐だぞこれは」
「知ったことか。行こう、明日香」
「うん」
「行かせない」
「のけよ」
直之に、バンと肩を押され、細い兄はよろけてこけてしまった。
「待てっ」
その声を背中で聞いて、二人は切符を終点まで買い、改札を出た。
功一は、追いかけてこなかった。
直之の態度に気後れしてしまったようだった。

七時四十五分の登り気動車に乗って、二人は行方も分からず旅立ってしまったのだった。