「もしもし・・・店長ですか?」
「明石、お前、今、どこにいるんだ?え?」
勤め先のスーパーの岩崎店長が、いつになく声を荒らげて受話器の向こうでしゃべった。
「すみません・・・今はちょっと」
直之は、口ごもった。ひとしきり、沈黙の後、
「言えないってわけか?彼女も一緒なのか?」
「はい。しばらくお休みをいただきたく」
「馬鹿。帰って来い。彼女のお兄さんが店に来てな・・・」
「す、すみません」
「お、おい。切るな」
海の見える公衆電話ボックスで、直之は受話器を置いた。
春とはいえ、海辺は風が強い。
彼のそばには、寒そうに肩をすくめている藤原明日香が立っている。
「どうだった?」
「兄さんが、店に来たらしい」
「そう・・・あの人ならやりかねないわね。店長さんにご迷惑がかかっていないかしら」
「大丈夫だろう」
根拠のない返事を、直之はした。
遠くから、遮断機の音が風に乗ってやってきた。
二人は坂田市から国鉄で終点の橋本まで来て、そこから笹川電鉄という小さなレールバスに揺られて、このひなびた港町にやってきた。
前に、太平洋が広がる小さな湾だった。

来た道を無言で戻る男女。
逃避行は始まったばかりだった。
改めて降りた駅を見ると、「笹川寄」とあった。
直之が、何と読むのかわからないので、もう一度駅舎に入って表示を見ると、ひらがなで「ささがわよせ」と読めた。
「『ささがわよせ』だってよ」
「知らない地名ね」
「人、いないな」
「うん。お腹すいた」
「そうだな」
直之は朝からなにも口にしていないことに、今更ながら気づかされた。

幸い、天気がよかったので、駅前通りを歩くことにした。
鯵(あじ)の開いたのが道に張り出した台の上で何枚も干されていた。
キンメ鯛のようなものもあった。
「お食事処だって。ほら」
明日香の指差すほうに、剥げた看板が見えた。
「やってるのかな」
「お客さんが出てきたよ」
たしかに、老けた男が楊枝を咥(くわ)えて出てきた。
深く刻まれた皺は、海での仕事が長いことを物語っているようだった。

店内は、小ぎれいで、白木のカウンターが真新しい感じだった。
ほかに客はいなかった。
「いらっしゃい!」
張り切った女の声で、彼らは迎えられた。
厨房には、体格のいい四十がらみの、かみさんがふくふくしい笑顔で二人を見ている。
縦縞模様の小ぶりな湯飲みにほうじ茶が入れられて、カウンターに座った二人の前に置かれる。
お品書きと並んで「おたふく」の面が飾ってあり、どこか、ここのおかみさんに似ていた。
「あたし、しっぽくうどん」
「おれもそれにするわ。お稲荷さんと」
「しっぽく二つに、お兄さんは稲荷ね」
おかみさんは注文を繰り返し、釜のほうに向った。
湯気が立ち上がり、ざるでうどんの湯が勢いよく切られた。
ものの五分ほどで二人の前にしっぽくうどんが置かれる。
稲荷は三つ、ガリと一緒に皿に乗って来た。
「いただきます」
明日香が手を合わせ、割り箸を割る。
直之も真似た。
ひとしきり、無言でうどんをすすった。
「熱う~い」
「はふ」
「あんたたち、旅行・・・じゃないみたいね」
おかみさんが、二人の様子を見ながら、尋ねた。
直之は一瞬、どきっとした。
箸が止まる。
「かけおち?」
図星を当てられた。
応えられず、明日香と見つめあった。
「やっぱりね。どうすんの?泊まるとこあるの?」
「ないで・・す」
明日香が言った。
「食べたらね、奥にいらっしゃい」
予期せぬ展開に、直之と明日香はとまどった。

店は「おたふく」という屋号だった。
おかみさんの話を聞いて、二人は納得した。
おかみさんのほうから、
「あたしが『おたふく』みたいだからって、主人がつけてね、最初は『きねや』って名前だったのよ。からっきし客が来なくてね、『おたふく』にして、あたしが厨房に立ったら、不思議にお客が来るようになって・・・」
ぺらぺらと、聞いてもいないのに、おもしろおかしく、おかみさんは店の来歴を語りだした。
「なんで、わかったんですか?」
直之が、食後に、落ち着いたので訊いてみた。
「あたしたちが、そうだったから・・・」
「おかみさんも?」
「あんたたちを見てると、あたしらの若い頃にそっくりだった・・・」
「このお店は、駆け落ちしてやりだしたんですか?」
「そうよ。もとはさっき言った『きねや』っていう食堂でね、婆さんがひとりでやってたの。あたしたちも結婚を反対されて、二人で家を出てきちゃってね、ここに、ぼろぼろでたどりついて、お婆さんのおうどんで一息ついたってわけ」
「まったく同じだわ・・・」
とは、明日香。
「お婆さんが、また、察しのいい人でね、『みなまで言わんでいい』って、ここに置いてくれたんだよ」
「そのお婆さんも亡くなって、あたしたちが、跡を継いだってわけ。血のつながらない他人なのにね」
しんみりと、二人に、おかみさんは語ってくれたのだった。

おかみは後藤尚子(なおこ)と言って、夫の祥雄(さちお)と『おたふく』を切り盛りしていた。
祥雄は、地元の漁師仲間と牡蠣(かき)の養殖を手伝って副業としている。
おかみの口利きで、慈光寺の住職のはからいもあり、寺の「離れ」に二人は住まわせてもらえることになった。
住職の山本智恵蔵(ちえぞう)によれば、この「笹川寄」というところは、その昔「非人」と呼ばれる、逃散民が寄り合って暮らす部落だったという。
「だから、逃げてきた者を迎える気概があるのや」とも、住職は言った。
まさに、直之と明日香のためにあるような所だった。

妊娠している明日香は尚子の手伝いをして『おたふく』で働き、直之はスーパー勤めで魚をさばいていたこともあって、漁港事務所で干物工場を紹介され、そこで働くことになった。

住民票も戸籍もない、二人の漂泊の人生が始まった。
それでも、若い二人は、希望に満ちていた。

昭和とはそういう、ゆるい時代だった。