功一は妹、明日香の潜伏先を追い求めて、執拗に調査していた。
彼が、かつて司法試験に挑んだとき以上に励んでいる様子だった。
その執念は、彼が司法修習で上席検察官に「不適格」と断じられた腹いせから来るのかも知れなかったし、妹をどこの馬の骨かわからぬ男に奪われた憎しみから来るものだったのかもしれない。
因(ちな)みに、上席検察官の間雄介(はざまゆうすけ)の報告によれば、功一は、頭はすこぶる良いものの、偏執的なものの見方が禍(わざわい)し、検察官として不適格としたとあり、他二名の検察官の意見も付されていたらしい。

父親の藤原泰造は、町議の任期満了を待たずに職を辞して、近く行なわれる県議会議員選挙に打って出る思惑で、公私共に忙しくしていた。
息子の検察官不適の知らせを聞いても、さして気を揉む様子もなく、泰造はむしろ自分の後継者として育てようとしていたので、そのほうが良かったとも思っていた。
ただ、娘の明日香は、同じ民政党出身の代議士で親友の川瀬半五路(はんごろう)の長男に嫁がせようと思っていた。
そうすれば、国会議員への道も開ける・・・そう打算してもいたのに、あろうことか、部落の男と駆け落ちをしてしまうという悔しい思いが怒りとなって、娘を奪った明石直之に向けられていた。

一方、母親の京子は、行方の分からぬ娘の体を案じ、そのお腹の子の無事を祈って、断腸の思いで毎日を過ごしていた。
その様子では、華道教授の仕事もままならず、弟子の副師範に教授はまかせて、息子の調査に期待を寄せて待つ日々を送っていた。

功一の調査は、検察仕込みの現場主義で、足を使った綿密な聞き込みによる証拠の積み上げの結晶だった。
功一は、自室にこもり、地図を広げ、時刻表を見開き、赤い線をいくつも引き、膨大なメモの束を繰った。
そして、大きなため息をつき、
「やはり、笹川沿線をおいてほかにない・・・」
兄の捜査の網は、明日香たちを絡め取ろうと、徐々に狭まりつつあった。

直之と明日香が笹川寄(ささがわよせ)に住みついてより、またも春が訪れようとしていた。
今年の冬は例年になく寒く、普段暖かな、ここでも何度か積雪を見た。
小ぢんまりした湾には、波濤が押し寄せ、見たこともない「波の花」が舞った。

明日香は臨月を迎え、『おたふく』の厨房で、大きなお腹をさすっていた。
産婆の上条和子は、古びた聴診器を明日香のお腹に当てて、
「ここ二、三日がヤマやね」
と、言った。
『おたふく』のおかみ、尚子には子がなかったので、出産の経験もなく、明日香の初産の不安が、わが事のように感じられるのだった。
そして、なにくれとなく、明日香の世話を焼いた。
「明日香ちゃん、今晩は、ここにいなさい。山の上のお寺の離れでは、不安だから」
「はい。おかみさん」
明日香夫婦の住まいの慈光寺は岬の小山のなかほどにあり、少し登らなければならなかった。
尚子は、奥の間に床を延べ、産婆の指示で産褥をしつらえた。
夜の八時ごろ、尚子の夫、祥雄に伴われて、直之が店に入ってきた。
こんなとき、男というものは、どうしていいのかわからなかった。
帳場のテーブルの上のアルマイトの灰皿に、みるみる吸殻の山が築かれる。
祥雄と直之は煙の中にいた。

もう日付も変わろうという十一時四十五分、激しい陣痛が明日香を襲い、苦しめた。
上条和子の必死の声援が聞こえる。
尚子も唱和する。
近所の奥さん連中も三々五々、やってきて、様子を窺っていた。

日付も変わり、十二時三十二分、呱々の声が店の奥から聞こえ、女たちの歓声も上がった。
祥雄が直之の背中を叩いて、うながした。

元気に泣く赤子が、産婆の手でたらいの湯で洗われていた。
まだへその緒が母親とつながっている。
「これが、おれの子か・・・」
「元気なお嬢ちゃんですよ」と、尚子が直之に伝える。
明日香はあせみずくで、産褥に横たわっていたが、元気そうだった。
「後産(のちざん)が出るから、男は出て」
上条和子の指示で、祥雄と直之は再び帳場に戻らされた。
「後産」とは、胎盤のことで、胎児が出産したあと、しばらくして膣から排出されるのである。
後産が排出されて、はじめてへその緒を切断するのが正しいお産のやりかたである。

小一時間後、直之と明日香は対面した。
「よく、がんばったな。えらいぞ」
「うん」
明日香の隣には、生まれたての赤ん坊がすやすやと寝入っていた。
「じゃあ、俺は家に帰るよ。明日香もぐっすり寝な」
「うん、おやすみ」

外は、満月だった。
海は凪いで、月を映していた。
祥雄が厨房の酒を開けて、祝杯をあげてくれた。
直之は軽い足取りで坂を登って、慈光寺に向った。

娘は「香(かおり)」と名づけられた。
もちろん、明日香の「香」の字を取ったのだった。
明日香、二十二歳の子だった。
直之はその五つ年上で二十七にならんとしていた。

ふと、明日香は、
「母さんに会いたい。この子を抱かせてあげたい」
そう、言った。
直之には、かける言葉がなかった。
「戻りたいか?」
しばらくあって・・・
「ううん。戻れやしないわ」
「そういうが、いずれは、お詫びをせねばならんだろう」
「まだ、いい」
明日香は、健気(けなげ)にも、そう言い切った。
母となった明日香は、以前よりも強くなったと、直之は感じていた。

藤原功一が笹川電鉄を一駅ずつ、降車して、聞き込みを始めてもう二ヶ月が経った。
このレールバスは、坊主岬(ぼうずみさき)でトンネルに入り、国道と交差して、笹川寄(ささがわよせ)駅、御室(おむろ)駅を経て、光善寺(こうぜんじ)駅が終点となる。
坊主岬の笹川寄駅側が、直之らが住まう慈光寺の寺域だった。
ついに、功一は笹川寄駅に降り立った。
「いかにも、世捨て人の溜まりそうな集落だ」
彼の第一印象はこうだった。
冷たい眼鏡を光らせながら、功一は薫風に吹かれて、港のほうへ歩く。
『おたふく』という看板が彼の目に付いた。
「こういう店で聞き込むのが、セオリーだな」
引き戸を開ける。
「いらっしゃい」
そう声をかけたのは、ほかならぬ妹だったから、功一も驚いた。
「おまえ」
「兄さん!」
背中に赤子を負ぶった妹を見て、功一はすべてを悟った。
「その子が、お前の子か・・・あいつとの間にできた」
「そうよ。兄さんこそ、何しに来たのよ」
「お前を連れ戻しにな。さあ、来るんだ」
「やめてよ。あたしは、もうここで暮らしていくの。家には戻らないわ」
「いいだろう、今日のところは、おとなしく帰ってやる。だが、いずれ、連れ戻すからな。逃げるなよ」
「逃げないし、帰りません!」

奥から、おかみの尚子が、騒ぎを耳にして飛んで出てきた。
「どうしたの明日香ちゃん」
「おかみさん・・・この人が、言ってた兄です」
「え?あなたが?明日香ちゃんを連れ戻しに来たの?」
「そうですよ」
ふてぶてしく、功一が言う。
「もういいじゃない。そっとしておいてやってくれない?」
「あんたには関係のないことだ」
「まあ!」
尚子が頓狂な声を出した。
「失礼!」
功一はそういって、そそくさと店を出て行った。

それからの数日は、明日香は不安な日々を過ごした。
直之は心配するなと言ってくれた。
明日香は、二十二歳の誕生日のことを思い出していた。
まだ、香がお腹にいたころ。
直之が、街に出て、珍しく誕生日のケーキを買ってきてくれたのだった。
二十二本のロウソクを立てて・・・
直之がマッチで火を点ける。
十七本目からは、二人で一緒に火を点けていった。
そう、明日香が十七のときから、直之と二人で、ままごとのような生活を始めたのだった。
そして、歌の文句のように、二十二歳で直之と別れることになるんじゃないかと思うと、明日香のほほを涙が伝った。

そしてそれは現実のものとなってしまった。
直之が、以下の書き置きと、いくばくかのお金を残して、居なくなってしまった。
「明日香、ごめんね。
君は、香と一緒に家に帰れ。
勝手な言い草かもしれないけれど、俺は君と一緒にいることができない。
君との五年間は、夢のように楽しかった。
でもそれは間違いだった。
誘拐のようなまねをして、君のご家族を苦しめた。
明日香も香も、元気に生きていってください。
それから、尚子さん、祥雄さんにもよろしくお伝えください。
ありがとう」
明日香は、涙で全部、手紙を読めなかった。

「あたし、どうしたらいいの?」
その叫びは、直之にはついに届かなかった。

(おしまい)

このお話は、お気づきかもしれませんが、松山千春の「旅立ち」と伊勢正三の「二十二歳の別れ」、岡林信康「手紙」、バンバンの「いちご白書をもう一度」、かぐや姫「神田川」をベースに作ったものです。