藤原泰造は後継者として息子の功一を政治家に育てていた。
できることなら、いきなり国政へ挑戦させたかった。
というのも、禅定寺町町議から県議会へ鞍替え選挙を企てたものの、革新派議員らから「西ノ端」部落の治水事業で談合に与(くみ)したとか、手抜き工事で、何度も同じ堤防が決壊したのは、公共事業の乱用を招くための工作で、泰造が主導して西ノ端の土木会社に仕事を定期的に与えていたなどと議会で突き上げられ頓挫したのだった。
おまけに泰造の長女、明日香が西ノ端出身の男と駆け落ちしてしまったことまで露見していた。
泰造と西ノ端部落の関係には、なにやら怪しいものがある・・・
革新派政党のシナリオは、そういう印象を町民に植え付けていた。
明石直之は、明日香と娘の香(かおり)のところから身を引いた。
逃げたのではない。
このまま二人のそばにいても、彼女たちに不幸を押し付けるだけだと思ったからだった。
明日香の両親や、ことに兄に受け入れられない直之たちの関係は、精算すべきだった。
そして、母子だけでも、藤原家に戻してやりたいと思ったからだ。
どうせ、直之には明日香と香に十分な生活を保証できるような手立てはないのだった。
明日香は香を伴って、藤原の家に戻っていた。
明日香の母の京子は、娘の帰還を歓迎した。
泰造も、最初は戸惑いを隠せなかったが、孫の香を見るや、積年のわだかまりはどこへやら、相好を崩して好々爺を演じていた。
そんな、両親と妹らを、冷たくあしらっていたのは、他でもない兄の功一だった。
「ぶざまなものよ・・・男に結局捨てられたんじゃないか」
そう、うそぶいた。
香に明石直之の面影を見て取った功一は、ますます汚物を見るような目で妹親子をねめつけた。
口も聞きゃしない。
一方、直之はどうだったのだろうか。
彼は、放浪の末、西ノ端に戻っていた。
父親の仙吉はすでに亡く、年老いた母、みちが弟の慶次と暮らしていた。
家はこぼれ、瓦がところどころ抜け落ちていた。
板塀は、剥がれて骨だけになっている。
白骨のような楓の木が秋だというのに葉を残していなかった。
「直之、おまえ、藤原の娘と駆け落ちしたんだってな」
母が、開口一番に言うた言葉がそれだった。
「もう知ってんのか」
「そんなもん、みんな知っとるわ。あすこの坊っちゃんがえらい剣幕で怒鳴りこんできたもん」
「へぇ、そんなことがあったか」
「気楽なもんよの。おまえはよ。して、相手はどうした?子供もできたちゅうじゃないか」
「別れた」
「なんと・・・」
「もうええがな。そっとしといとくれ」
「あきれた・・・お父(とう)になんて報告すべいか・・・」
「いつ亡くなった?」
「去年の春じゃ」
「なんで亡くなった」
「脳溢血」
「ふうん」
直之は、くすんだ天井を見上げながら、
「ここで、こうやって親父は逝ったか」とつぶやいた。
直之は、旅の空で西ノ端部落が、藤原泰造、つまり明日香の父親によって貶められていることを聞いた。
父の仙吉が人夫として堤防工事に出、直之らを育て上げたのを知っていたから、悔しくてならなかった。
仙吉たち、部落の男がした仕事は、みんな無駄な工事であり、泰造の息のかかった土建屋に不当な金を流すための口実として、また、泰造の選挙軍資金の捻出のために行われたものだったのだ。
その結果、毎年、大賀川は氾濫した。
被害の大小はあったものの、床下、床上浸水は当たり前に起こり、何の改善もされなかった。
徒労の末、仙吉を始め、多くの西ノ端の壮年が命を落とした。
「あんちゃん、おれ、高校に行ってるんだぜ」
うれしそうに、帰ってくるなり慶次が言う。
「ああ、聞いた。ようやったな。勉強、むずかしいだろ」
「ううん。おれ、結構、できるんだぜ」
「ほうか」
しかし、学費はどうしているのだろう?
母親の、封筒貼りの内職だけでは、とうてい学費の手当は無理なように、直之には思えた。
「おまえ、その、学費はどうしてるんじゃ?」
小さな声で、直之が訊いてみた。
「心配ねぇ。おれ、バイトしてるから」
「へぇ」
新聞配達をやって、ちゃんと自分の分は稼いでいるというのだ。
直之は、頭が下がった。
自分のいないうちに、弟は何倍も大人になっていた。
「すまねぇな」
「なんで、あんちゃんが謝るんだ?」
「大黒柱としておれがしっかりせねばいかんかったのにな」
「ううん。おれはこれでいいんじゃ」
まぶしい笑顔で、弟の慶次ははっきりそう言った。
数日後、直之は、またあのスーパーマーケットで働けるようになった。
店長の岩崎忠(ただし)が、直之を快く迎えてくれたからだ。
「おまえは、戻ってくると思っていたよ」
そして、何があったのかは一切、直之に訊かなかった。
直之は、母と弟を楽にさせてやろうと、一所懸命に働くことを決意したのだった。
その翌年の気象は異常だった。
梅雨時の雨が、豪雨となって、大賀川の警戒水位を簡単に越してしまった。
決壊寸前まで濁流が迫っていた。
台風並みの低気圧が、前線を活発にしていた。
「あんちゃん、危ねえよ」
雨合羽で川を見に行っていた弟が、玄関で長靴を脱ぎながら言う。
「来るかな」
「たぶん。今晩辺り」
ラジオでは、引き続き警戒をするようにとやかましく言っている。
暗雲は垂れ込め、昼前なのに夕方のようだった。
電気は何度も停電を繰り返していた。
雨だけでなく、風も強い。
ふしの多い杉板の雨戸は、穴がいっぱい開いている。
雨漏りが激しく、そこかしこに洗面器やなべ、茶碗がおかれて足の踏み場もない。
「蟻の一穴」という言葉通りに、手抜き工事の大賀川第二堤防は容易(たやす)く決壊した。
怒涛が土塁を破り、濁流となって西ノ端部落を襲った。
避難する間もなく、家屋は押し流され、人は呑まれた。
直之は柱に捕まったが、その手も滑り、絶え間なく流れ来る瓦礫に叩かれ気を失った。
慶次の声を一瞬聞いたように思ったが、雨音にかき消されてしまった。
母はどうなったか・・・
サイレンがけたたましく鳴り響いている。
消防が駆けつけるが、西ノ端に入るたったひとつの橋が流され、手のつけようがなかった。
大賀川の西岸は広く水が横溢し、大海のようになっている。
雨のピークは去り、小雨の中、無事だった禅定寺町の人々が、西ノ端の方を力なく眺めていた。
その中に、香を抱いた明日香の姿もあった。
「直之さんは、あそこにいなければいいのだけれど・・・」
その願いも虚しく、直之の行方はわからなくなっていたのだった。
その日から間もなく、藤原泰造のせいで西ノ端が流されたという噂が立った。
噂の出どころは、対立会派の議員からか、それとも談合でおこぼれを頂戴できなかった土建屋仲間からか、わからないが、まことしやかにささやかれた。
泰造の悪行はついに露見した。
刑事告発にまで発展する始末で、東京から取材陣も駆けつけた。
「人が何人も行方不明になったり、死んでいるんですよ。なんとか言ってください、藤原さん!」
テレビに、記者から詰め寄られる泰造が映し出される。
「わしは、知らん!」
泰造はしかし、すぐに汚職の嫌疑で送検されてしまうのだった。
贈賄側がゲロしてしまったらしい。
我慢ならなかったのは功一だった。
「もう、これで終わりだ」
そうつぶやいて、自室に引きこもってしまった。
いたたまれず、京子と、明日香と香は出原(いずはら)の別荘に越してしまった。
台風シーズンになり、大賀川は再び暴れ、禅定寺町の一部と下流の坂田市をも呑み込んでしまった。
その中には藤原泰造の屋敷もあった。
ついに、百四人が死亡し、二十三人が行方不明という大惨事になってしまった。
川の流域はまったく変わってしまい、河口の位置が元より西に五キロも移動してしまったのだった。
稀有の大雨と、手抜き堤防と、老朽化した朝草ダムの決壊がもたらした洪水は、大賀川洪水として後世に語り継がれることになるのだった。
できることなら、いきなり国政へ挑戦させたかった。
というのも、禅定寺町町議から県議会へ鞍替え選挙を企てたものの、革新派議員らから「西ノ端」部落の治水事業で談合に与(くみ)したとか、手抜き工事で、何度も同じ堤防が決壊したのは、公共事業の乱用を招くための工作で、泰造が主導して西ノ端の土木会社に仕事を定期的に与えていたなどと議会で突き上げられ頓挫したのだった。
おまけに泰造の長女、明日香が西ノ端出身の男と駆け落ちしてしまったことまで露見していた。
泰造と西ノ端部落の関係には、なにやら怪しいものがある・・・
革新派政党のシナリオは、そういう印象を町民に植え付けていた。
明石直之は、明日香と娘の香(かおり)のところから身を引いた。
逃げたのではない。
このまま二人のそばにいても、彼女たちに不幸を押し付けるだけだと思ったからだった。
明日香の両親や、ことに兄に受け入れられない直之たちの関係は、精算すべきだった。
そして、母子だけでも、藤原家に戻してやりたいと思ったからだ。
どうせ、直之には明日香と香に十分な生活を保証できるような手立てはないのだった。
明日香は香を伴って、藤原の家に戻っていた。
明日香の母の京子は、娘の帰還を歓迎した。
泰造も、最初は戸惑いを隠せなかったが、孫の香を見るや、積年のわだかまりはどこへやら、相好を崩して好々爺を演じていた。
そんな、両親と妹らを、冷たくあしらっていたのは、他でもない兄の功一だった。
「ぶざまなものよ・・・男に結局捨てられたんじゃないか」
そう、うそぶいた。
香に明石直之の面影を見て取った功一は、ますます汚物を見るような目で妹親子をねめつけた。
口も聞きゃしない。
一方、直之はどうだったのだろうか。
彼は、放浪の末、西ノ端に戻っていた。
父親の仙吉はすでに亡く、年老いた母、みちが弟の慶次と暮らしていた。
家はこぼれ、瓦がところどころ抜け落ちていた。
板塀は、剥がれて骨だけになっている。
白骨のような楓の木が秋だというのに葉を残していなかった。
「直之、おまえ、藤原の娘と駆け落ちしたんだってな」
母が、開口一番に言うた言葉がそれだった。
「もう知ってんのか」
「そんなもん、みんな知っとるわ。あすこの坊っちゃんがえらい剣幕で怒鳴りこんできたもん」
「へぇ、そんなことがあったか」
「気楽なもんよの。おまえはよ。して、相手はどうした?子供もできたちゅうじゃないか」
「別れた」
「なんと・・・」
「もうええがな。そっとしといとくれ」
「あきれた・・・お父(とう)になんて報告すべいか・・・」
「いつ亡くなった?」
「去年の春じゃ」
「なんで亡くなった」
「脳溢血」
「ふうん」
直之は、くすんだ天井を見上げながら、
「ここで、こうやって親父は逝ったか」とつぶやいた。
直之は、旅の空で西ノ端部落が、藤原泰造、つまり明日香の父親によって貶められていることを聞いた。
父の仙吉が人夫として堤防工事に出、直之らを育て上げたのを知っていたから、悔しくてならなかった。
仙吉たち、部落の男がした仕事は、みんな無駄な工事であり、泰造の息のかかった土建屋に不当な金を流すための口実として、また、泰造の選挙軍資金の捻出のために行われたものだったのだ。
その結果、毎年、大賀川は氾濫した。
被害の大小はあったものの、床下、床上浸水は当たり前に起こり、何の改善もされなかった。
徒労の末、仙吉を始め、多くの西ノ端の壮年が命を落とした。
「あんちゃん、おれ、高校に行ってるんだぜ」
うれしそうに、帰ってくるなり慶次が言う。
「ああ、聞いた。ようやったな。勉強、むずかしいだろ」
「ううん。おれ、結構、できるんだぜ」
「ほうか」
しかし、学費はどうしているのだろう?
母親の、封筒貼りの内職だけでは、とうてい学費の手当は無理なように、直之には思えた。
「おまえ、その、学費はどうしてるんじゃ?」
小さな声で、直之が訊いてみた。
「心配ねぇ。おれ、バイトしてるから」
「へぇ」
新聞配達をやって、ちゃんと自分の分は稼いでいるというのだ。
直之は、頭が下がった。
自分のいないうちに、弟は何倍も大人になっていた。
「すまねぇな」
「なんで、あんちゃんが謝るんだ?」
「大黒柱としておれがしっかりせねばいかんかったのにな」
「ううん。おれはこれでいいんじゃ」
まぶしい笑顔で、弟の慶次ははっきりそう言った。
数日後、直之は、またあのスーパーマーケットで働けるようになった。
店長の岩崎忠(ただし)が、直之を快く迎えてくれたからだ。
「おまえは、戻ってくると思っていたよ」
そして、何があったのかは一切、直之に訊かなかった。
直之は、母と弟を楽にさせてやろうと、一所懸命に働くことを決意したのだった。
その翌年の気象は異常だった。
梅雨時の雨が、豪雨となって、大賀川の警戒水位を簡単に越してしまった。
決壊寸前まで濁流が迫っていた。
台風並みの低気圧が、前線を活発にしていた。
「あんちゃん、危ねえよ」
雨合羽で川を見に行っていた弟が、玄関で長靴を脱ぎながら言う。
「来るかな」
「たぶん。今晩辺り」
ラジオでは、引き続き警戒をするようにとやかましく言っている。
暗雲は垂れ込め、昼前なのに夕方のようだった。
電気は何度も停電を繰り返していた。
雨だけでなく、風も強い。
ふしの多い杉板の雨戸は、穴がいっぱい開いている。
雨漏りが激しく、そこかしこに洗面器やなべ、茶碗がおかれて足の踏み場もない。
「蟻の一穴」という言葉通りに、手抜き工事の大賀川第二堤防は容易(たやす)く決壊した。
怒涛が土塁を破り、濁流となって西ノ端部落を襲った。
避難する間もなく、家屋は押し流され、人は呑まれた。
直之は柱に捕まったが、その手も滑り、絶え間なく流れ来る瓦礫に叩かれ気を失った。
慶次の声を一瞬聞いたように思ったが、雨音にかき消されてしまった。
母はどうなったか・・・
サイレンがけたたましく鳴り響いている。
消防が駆けつけるが、西ノ端に入るたったひとつの橋が流され、手のつけようがなかった。
大賀川の西岸は広く水が横溢し、大海のようになっている。
雨のピークは去り、小雨の中、無事だった禅定寺町の人々が、西ノ端の方を力なく眺めていた。
その中に、香を抱いた明日香の姿もあった。
「直之さんは、あそこにいなければいいのだけれど・・・」
その願いも虚しく、直之の行方はわからなくなっていたのだった。
その日から間もなく、藤原泰造のせいで西ノ端が流されたという噂が立った。
噂の出どころは、対立会派の議員からか、それとも談合でおこぼれを頂戴できなかった土建屋仲間からか、わからないが、まことしやかにささやかれた。
泰造の悪行はついに露見した。
刑事告発にまで発展する始末で、東京から取材陣も駆けつけた。
「人が何人も行方不明になったり、死んでいるんですよ。なんとか言ってください、藤原さん!」
テレビに、記者から詰め寄られる泰造が映し出される。
「わしは、知らん!」
泰造はしかし、すぐに汚職の嫌疑で送検されてしまうのだった。
贈賄側がゲロしてしまったらしい。
我慢ならなかったのは功一だった。
「もう、これで終わりだ」
そうつぶやいて、自室に引きこもってしまった。
いたたまれず、京子と、明日香と香は出原(いずはら)の別荘に越してしまった。
台風シーズンになり、大賀川は再び暴れ、禅定寺町の一部と下流の坂田市をも呑み込んでしまった。
その中には藤原泰造の屋敷もあった。
ついに、百四人が死亡し、二十三人が行方不明という大惨事になってしまった。
川の流域はまったく変わってしまい、河口の位置が元より西に五キロも移動してしまったのだった。
稀有の大雨と、手抜き堤防と、老朽化した朝草ダムの決壊がもたらした洪水は、大賀川洪水として後世に語り継がれることになるのだった。
コメント