諸星静江は四十路の細身の女だった。
三光生命の外交員として、そこそこの成績を収め「脂ののった」人生を送っていた。
ただ、男に恵まれなかった。
これまでつき合った男は「ヒモ」のような男ばかりだった。

外交員の「枕営業」とよく言われるが、静江もその手段を使う。
「ヒモ」はその結果、くっついてきた男だった。

しかし今度の男は違った。
静江が後輩外交員と一緒に行きつけのスナックで出会った男だった。
女がカラオケスナックで飲むというのも異色だが、静江の友人がママをしているので懇意にしていただけだった。
男の名前は赤井玲士と言った。
年のころは、静江よりも若く三十半ばという感じだった。
出会ったその日は、赤井たちは四人で卓を囲んで飲んでおり、静江と後輩の女の二人はカウンターで飲んでいた。
ママの「えっちゃん」こと秋月悦子が、静江に赤井達を紹介したのがきっかけで、カラオケでデュエットを歌ったり盛り上がったのだった。
「しずちゃんね、この歳でまだ独り身なんよ」
と、赤井達にママが言う。
「やめてぇな、ママ」
静江が、はにかんで、グラスを口にもっていく。
赤井が、自分たちが商工会の青年部の者だと自己紹介し、名刺を交換した。
同じ染色屋の二代目小西誠吾が静江の後輩の上野亜紀にモーションをかける。
小西も独身なのだった。
他の二人、長嶋康夫と田畑広司は既婚者であり、分別もあったから社交儀礼以上の接近はしなかった。
長嶋は五十を過ぎていたし、田畑も四十八と、もはや女とナニする元気もなく、ゴルフと麻雀が趣味というような男たちだった。
しかし赤井は違った。
まだ三十五である。
妻の咲子との仲は、冷え切っていた。
息子ができると女というものは夫の存在を忘れてしまう生き物らしい。
息子もまた、父親をうっとうしく思う年頃にさしかかっていた。
「だいたい、咲子が忠士(ただし)にべったりすぎるのだ」
そう、玲士は苦々しく思っていたし、一人息子の忠士に対抗心を燃やす自分も情けなかった。
だから、こうやってスナックでかりそめの出会いを楽しんでいたのである。
「諸星さんは、結婚せぇへんかったん?」
カウンター席に場所を移した玲士は、何倍目かの水割りを舐めながら、静江に肩を寄せた。
「ええなと思った人はいたわ」
「へぇ」
「赤井さんは、奥さんいるんやろ?」
「息子も一人ね」
「仲ええの?」
「ぜんぜん」
玲士は、グラスを干すと、ママにお代わりをねだる。
ママがにっこりとほほ笑んで、静かにグラスを下げる。
「遊ぶくらいやったら、どう?」
静江のほうから、誘ってきた。
亜紀の快活な笑い声が背中から聞こえた。
小西誠吾が下ネタで笑わせているらしい。
「そうやな。バレへんかったらええか」
この会話をママは聞こえないふりをしている。
こういう酒場での会話には、ママは介入しない主義なのだった。

赤井玲士と諸星静江の逢瀬は、ことのほか簡単に進んだ。
静江が慣れていたからかもしれない。
男との出会いと別れを何度も経験した静江である。
どれも男の身勝手で、静江がバカを見た。
だからといって、玲士との逢瀬も同じ道をたどるとは思えなかった。
静江は、男を必要としていた。
抱かれたかった。
四十路の女の、心のすき間を埋めてほしかった。

市内のラブホテルが彼らの逢引きの場所だった。
会えば「やる」しかない大人の割り切りの関係。

「しずちゃん」
「れいくん」
そう呼び合って、二人でシャワーを浴び、立ったままつながった。
すらりとした、静江の体は柔らかく、片足を上げて、斜め下から玲士の長いペニスで突き上げられることを望んだ。
「ああん、硬いわぁ。れいくん」
「しずちゃん、もう、おれ逝きそうや」
「あかん!こんなとこで。逝くんやったらベッドで…」

鏡で覆われた部屋の真ん中で、男女が組み合っている。
シーツはぐしゃぐしゃに波打ち、彼らの分泌する液体でところどころ染みが広がっている。
静江は腋の毛を処理していないようだ。
玲士はその新鮮さに、さらに興奮して、そのヘアーを噛んだ。
うま、うま…
「やめてぇ、れい…」
「ええやんか。めっちゃやらしいで」
玲士が腋から、横腹、そして形のいい乳房に舌を這わせる。
咲子にもやったことがない舌技だった。
静江の長い指が玲士をまさぐる。
「ほんまに硬いわぁ」
「しずちゃんのせいや」
「あたしのために、こんなにしてくれてんの?うれし」
「ヨメやったら、立たへん」
「そんなこと言うてから…」
そう言って、静江から唇を求めて来た。
玲士の背中に静江の腕が回り、引き寄せられる。
これまでの静江の遍歴の記憶を吹っ飛ばすほどの玲士の閨房術だった。
「このひと、やばい…」静江はそう思った。
実のところ、枕営業で関係を持った男たちというのは、男性的にダメなタイプで、自分だけさっさと逝ったら「はいおしまい」という感じだった。
技もペニスも、さして立派とは言えず、話だって面白くなかった。
しかし玲士は違った。
静江を立ててくれるし、いたわってくれた。
心行くまで、クンニリングスをしてくれ、挿入まで時間をかけた。
焦らされたあげくに、ついに待ちに待った挿入が企てられる。
体に芯を一本通されるような挿入…
静江は背骨が逆に折れるほどのけぞった。
「逝く」ということが、静江に初めてもたらされた。
息をするのも忘れるような、気絶の一歩手前の、命の危険を感じる交接だった。

玲士は、咲子にこんな技を使ったことがなかった。
生来のものなのか、玲士自身もわからなかった。
静江を前にして、こうせねばならないと別の人格が乗り移ったかのように体が動くのだ。

玲士たちがめくるめく逢瀬を重ねていた時期、思春期の一人息子、忠士が父親の上着のポケットから妙なものを見つけた。
母親が父のジャケットをクリーニングに出すから二階から持ってきてくれと忠士に頼んだのだった。
ハンガーから外すときカサコソと内ポケットから音がしたので、無意識に忠士が手を差し入れたのである。
彼の手に触ったものは、避妊具だった。
忠士はそれがなんだか、まだわからなかったが、そのゴムでできているであろうリング状のものが密封された袋に、なにやら淫猥な雰囲気を感じたのは当然かもしれなかった。
そしてこの事実を母親に知らせるべきかどうか逡巡した。
「おかあちゃん。これ」
息子の手にあったものを見た咲子の目が大きく見開かれた。
「あんた、それ…」
「おとうちゃんのポケットにあった」
「ええっ?」
頓狂な声を上げたのは咲子の方だった。
「か、貸しなさい。ほかに何かなかった?」
「カードが入ってた」
「カード?」
「これ」
忠士がもう一度ポケットをまさぐって出してきたのは、テレカかクオカードのような薄いものだった。
見れば、どうやらラブホテルのメンバーズカードのようだった。
取り乱したのは咲子の方だった。
「このことはおとうちゃんには、言うたらあかんよ。このまま仕舞っといて。もうクリーニングはええから」
早口でまくしたてて、咲子はジャケットを忠士に戻すように命じた。
忠士も、これはただごとでないと察したのか、母親に従った。
忠士の頭の中では、両親の離婚という言葉が浮かんだ。
無理もない。

咲子は、このことを夫に問いただしたものかどうか迷っていた。
もし問いただしたとして、なんとでも言い逃れるだろう。
父に相談しようか?
福崎工芸の次期社長を嘱望されている夫にとって、咲子の父である社長からの叱責は重いだろう。
しかし、それも、家庭崩壊を止める手段にはならないように思えた。
咲子は、このまま事を荒立てないように胸に収めることにした。

知らんふりを装っていても、内心は穏やかではなかった。
そんなときに、周囲から夫の不貞行為を耳に入れる不届き者がいるものだ。
夫の悪友の小西である。
「奥さん、玲士のやつ、女つくってるで」
染色見本を持ってきたときに、小西誠吾がしゃべったのである。
「なんやのん?いきなり」
「相手はな、四十くらいのおばはんで、保険の外交やってる女みたいや」
咲子の耳はそばだった。
「へぇ。小西はん、どこで見たん?」
「河原町のホテル」
あのメンバーズカードのホテルは河原町にあったはずだ。
小西は上野亜紀にフラれて、腹いせに悪友の火遊びを、咲子にチクったのだった。

中学二年生の忠士も複雑な気持ちだった。
あの母の反応は尋常ではないことくらい、この年頃の少年は気づいていた。
彼の友人からの情報でも、あの袋が「コンドーム」という避妊具の包みであることや、ラブホテルというセックスをするためだけの施設が市内にあることなどを知るに及んだ。
「なんや赤井は、お子様やなぁ。そんなことも知らんのんか」
「し、知ってるわい。確かめただけやんけ」
こんなやり取りで得た情報である。
そして、忠士はマスターベーションを覚えた。
友達から回ってきたエロ本を見て、初めて射精を経験した。
「うぁ、なんか、めっちゃ気持ちええ」
手を汚した白い粘液が、みんなの言う「精液」であることは間違いなかった。
ほとんどの学友が、すでに経験済みだったと言われ、
「赤井も、はよ経験せぇ」と、このエロ本を貸してくれたのだった。
あくる日、親友の坂井太一が、
「どうやった?出たけ?」
忠士が、赤い顔で、
「出た」と小さく言った。
バンと坂井に背中を叩かれて、
「おめでとさん!」と言われた。
そして、
「おい、赤井が出たってよ」
と、男子生徒に向かって知らせたのだから、忠士はたまらなくなって部屋から駆け出した。
後から笑い声が追いかけて来た。

(おわり)